
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
趣味で写真をやっている人の大部分は、他人のためではなく自分のために写真を撮っているのだと思う。
だとすれば自己満足でいいじゃないかということになるかといえばそうはいかないのが写真というものだ。
写真は多くの場合、他人と共有することをひとつの目的としている。自分の撮った写真を自分ひとりで眺めていても楽しくない。他人を巻き込みつつ自己満足を得るためには、他者の目や意見といったものを無視することはできない。
写真に限らず、人はとかく優劣をつけたがるものだし、他人の評価を欲するものだ。自己完結的に満足することは案外難しい。
たとえばフォトコンテスト。入れば嬉しいし落ちれば悔しい。選ばれれば自信になる一方で、あまりにも入らないと自信を失い、自分の写真には何の価値もないのではないかなどと落ち込んだりもする。
けど、他人に自分の写真の価値を決めてもらわなければ自分の写真を信じられないとすれば、それはちょっと寂しい。
自分も満足できて人からも褒められればそれが一番ということになるだろうけど、そういった予定調和だけでもないような気もする。
個人的なことをいえば、私は私の写真の一番のファンだから、自分を満足させなければならないという思いが写真を撮り続けるひとつの原動力になっている。もっと写真を見せてくれと自分に催促する。
写真だけに限定するなら、他の誰の写真も私を満足させてくれないから、仕方なく自分で撮って自分を満足させているという面もある。
それだけではないけど、まずそこが基本となる。
写真を見るという行為は一種の追体験だから、多くの人が同じように考えているのではないかと思う。
他人の評価を写真の原動力とするのは危うい。人に褒められることや、フォトコンに入選することだけを求めてしまうと、自分が本当に撮りたいものを見失いがちになる。
写真における自己満足とは何か。
イメージを写真として再現することや、ずっと追い求めていたシーンを撮れたとき、決定的瞬間をものにできたときや、偶然すごい写真が撮れてしまったときなどがあるだろうか。
どんな自己満足でもいいけど、自分が満足するには何をどう撮ればいいのかを自覚しておくことが必要だ。
結局のところ、自分が本当に撮りたいものを撮るということに写真は尽きる。撮りたいものを撮り続けている人間は強い。そこへ向かってただひたすら集中していれば他人の評価など気にしている余裕はない。
大切なのは、自己満足のレベルを上げていくことだ。現状に満足せず、他人の評価を喜ばず、もっともっとと高いものを求めていくことで結果的に写真の質は上がっていく。どん欲でなければならない。
写真は他の芸術とは少し違った性質を持っている。単なる自己表現ではなく、情報伝達であり、記録でもある。そこに難しさと混乱の要因がある。
良いとされる基準が多様で曖昧だ。何をもって優れているとするかを決めかねる部分がある。ジャンルも多岐にわたっている。
そもそも、ドキュメンタリー写真と風景写真を同じ物差しで評価しようなどというのは乱暴な話だ。
ただ、考えようによってはこれほど自由度の高い表現方法も他にない。何をどう撮らなければいけないという決まり事はないに等しく、どんな表現も個人の意志に委ねられている。
自分の写真に満足できないとしたら、それはいい写真の固定概念にとらわれすぎているせいかもしれない。絶景の朝焼け写真や、決定的瞬間を捉えた人物写真だけがいい写真のすべてではない。
まだ行ったことがないところへ行き、撮ったことがないものを撮ってみる。そうやって自分の写真世界を広げていくことも、ひとつの自己満足探求方法だ。
もっといいものを撮りたいという欲が自分の写真世界を狭く小さくしていないだろうか。
自己満足では駄目だと言い、自己満足でもいいじゃないかと言う。
私は、自己満足でもいいと思う。ただし、自分を100パーセント満足させる写真を撮れているならば、だ。
どうせなら、120パーセントの自己満足を求めてみない?