
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
セバスチャン・サルガドは言った。
「待つのが嫌なら、写真家にはなれない」
いい写真を撮るための方法論があるとすれば、それは、通うことと粘ることしかないのではないか。
「ひたすら待ち続けると、神がつくる造形に出会える瞬間がある」
「無心で通い詰めれば、自然は、いつか奇跡の一瞬を与えてくれる」 横山宏。
あるいは、スナップ写真となると、少し事情は違ってくるかもしれない。
木村伊兵衛は、自分より後ろのものを決して撮らなかったという。
撮るべき場面に遭遇したら、おもむろに近づき、気づかれないくらいの早業でパチリと撮って、あとは後ろを振り返らずに歩き去る。
森山大道の場合、通りを必ず往復するんだそうだ。目に付くものを手当たり次第、絨毯爆撃のように撮り尽くしていく。
「質は絶対量からしか生まれない」というのが森山大道の信念だからだ。
また、こうも言っている。
「自身の欲望が発する必然の投網を打って、偶然という獲物を絡め取ること」
森山大道らしい気の利いた言い回しだ。
もうひとつ。距離の問題がある。
「もし、いいのが撮れないとしたら、それは近づいていないからさ」 ロバート・キャパ。
近づくというのは、単に一歩、二歩前へ出るとかそんな話ではない。
物理的にも精神的にも対象に踏み込むということだ。
たとえば人物なら、これ以上他人に近づかれたくない距離感をパーソナルエリア(パーソナルスペース)と呼んでいるけど、その線を越えて内側に入っていくことでしか撮れないものがある。
風景でも、花でも、生きものでも、踏み込んでいかないと、本当のところは写らないような気がしている。
被写体について学び、理解を深め、共感し、好きになること。それがつまりは近づくということだ。
土門拳の信条は、粘ることだった。
被写体に食らいついたら離さない執念があった。
プロとアマの大きな違いは、ものにすると決めた一枚を撮るためにかける時間の長さだ。絶対的な時間量と言ってもいい。
アマチュアは、現地に着いてから状況に反応して撮るのに対して、プロは準備段階で時間をかけ、構想を練り、頭の中にあるイメージを見つけるために現地に赴く。撮れなければ粘り、撮れるまで何度も通う。時には一枚のために何年もかける。
言い方を変えれば、アマチュアがプロと同等のものを撮るには、プロと同じだけの時間をかければいいということになる。
撮るものが決まって、いいロケーションを見つければ、あとは通って撮るだけだ。もし、一年365日、24時間その場所に立ち続けることができれば、必ずいいのが撮れる。現実的に不可能だとしても、理屈でいえばそうだ。
大事なのは枚数ではなく回数だ。一度にたくさん撮ることが大切なのではなくて、何度も何度も通い詰めて撮ることが重要なのだ。
写真は必ずしも才能やセンスがすべてではないというのはそういう部分があるためだ。絵画の才能がなければ100枚描いても1万枚描いても傑作は描けないけど、写真は100回、1000回通えば、必ず傑作が撮れる。あきらめずにどこまで追求できるかどうかにかかっている。
趣味として楽しく写真を撮ることが間違っているとかそういうことを言いたいわけではない。
もし、本気でいい写真が撮りたいと思うなら、そう簡単な話ではないということだ。
写真は練習すれば上手くなるというものではないから、とにかく実践を積み重ねるしかない。時間をかけなければいいのは撮れないけど、持ち時間は限られている。
今日は気分が乗らないから撮りに出たくないと思うとき、おまえの本気はその程度なのかと自分に問いかけてみる。撮りに出られなければ負けを認めたことになる。
撮れる撮れない以前に、フィールドに立ち続けるという必要最低限の誠意も見せられない撮り手に、写真の神が微笑んでくれるとは思えない。
いい撮り手であるための一番の条件は、勤勉であることだ。ごくありきたりでつまらない結論だけど、それが真理だから仕方がない。
必死に撮っても誰も褒めてくれないとしても、自分で自分を褒められるくらいには頑張りたい。
費やした時間は裏切らないと信じて。