
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
今回はトリミングについて書いてみたい。
デジタル写真となった今の時代、トリミングは悪と決めつけるストイックさは必要ないと考えている。むしろ、積極的にすべきだと思う。
なぜなら、トリミングして良くなることはあっても悪くなることはないから。
問題なのは、どうトリミングすればその写真が良くなるかが判断ができるかどうかとうかということであって、トリミング行為そのものの善し悪しということではない。
トリミングをしないというこだわりは本人の問題でしかなく、鑑賞者の側からしてそんなことは何の意味もない。これはトリミングしてないんだなどと自慢されてもどうとも思わない。トリミングに限らず、撮り手の苦労話など、見る側にとってはまったく興味がないことだからだ。
トリミングすることがなぜ必要なのか?
それは、最終的にはトリミングしなくてもよくなるためだ。
矛盾しているように聞こえるかもしれないけどそうではない。
トリミングしないで済むようにトリミングすることがまずは必要だという話だ。
トリミングは習字の添削のようなものと思えば理解しやすいかもしれない。添削が必要なければすることはないけど、駄目な部分があれば添削してもらった方がより良い字が書けるようになる。
難しいのは、自分で自分の写真を添削しなければならないということだ。
他人の写真を見て、ここをもう少しトリミングすればもっとよくなるのにと思うことはよくあるんじゃないだろうか。
でも、自分の写真を同じように判断することは簡単なことではない。写真は主観で撮ったものだから、客観視するのが難しい。

ひとつの方法として、どこまでトリミングできるか、限界まで試してみることだ。
これ以上トリミングしてしまうと、自分が表現したかったことができなくなるというところまで削ってしまう。
その上で、もう一度範囲を広げていく。
撮ったままの写真と、最大限トリミングした写真の間に最適な地点があるはずだ。そこを探り当てなければならない。
主観的にちょうどよいと感じる時点は、たいていの場合、客観的に見ると甘い。自分の写真にはどうしても情がうつってしまうから。
ポイントは、自分の撮ったものに対してどこまで非情になれるかだ。ちょっと削り過ぎと感じるくらいでいい。

もうひとつ、縦位置でトリミングできないか考えてみるのも有効な手段だ。
2枚目の写真を経て、3枚目の縦位置トリミングでこの写真は完成ということになる。1枚目の写真と比べると、より主題が明確になったのが分かると思う。
現場ではとっさに縦位置で撮ることが思いつかないことがあるから、撮った写真を見直したときに、縦位置の可能性を探ってみることは無駄じゃない。
縦位置で成立する写真は、余計なものが多く写り込んでいることを意味する。
自分の写真を客観視するには、時間を置くのが一番効果的な方法だ。
だから、過去に撮った自分の写真を見返すということは絶対に必要だ。撮った当時は今ひとつに感じられてお蔵入りした写真が、進んだ感覚で見直してトリミングすることで生まれ変わったように良くなることがある。
トリミング行為を重ねていくことで、だんだん撮る段階でトリミングしたあとの完成図が見えるようになってくる。余分なものは最初から写さない方が話は早いに決まっている。
どうせあとでトリミングするから広めに撮っておけばいいやという安易な撮り方はいけない。そういう写真は緊張感に欠ける。
繰り返しになるけど、レタッチ段階でのトリミングは、トリミングしないで済むための訓練という位置づけで考えたい。いわばトリミングを極めるといったことだ。
目標は、撮った写真のすべてを撮りっぱなしでそのまま表に出したり、人に渡したりできるようになるところにある。
まずは過去に撮った自分の写真を片っ端からトリミングすることをオススメします。