
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
しばらく中断していたご近所神社めぐりを再開しようと思う。
どこまでやったのか忘れてしまったので、とりあえず守山区のまだ行ったことがないところからやることにした。
この日出向いたのは、小幡にある白山神社(はくさんじんじゃ)だった。
このあたりにはいくつかの白山神社があるので、区別するために小幡白山神社と呼んでいるようだ。
白山神社というと、東区の矢田にある白山神社や春日井にある二子山古墳の白山神社に行ったことがある。尾張旭にもあったし、小さいところは他にもあった気がする。
名前の通り白山信仰が元になった神社で、加賀国(石川県)白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)が総本社となっている。
北陸から中部地方を中心に、全国で2,700社ほどあるそうだ。
古代から白山は信仰の対象だったようで、奈良時代に泰澄が登頂して開山して以来、山岳信仰の対象となっていった。
その後、修験道と結びついて白山神社は神仏習合の神社となり、明治(1868年)の神仏判然令(神仏分離)を経て、現在に至っている。

銅板を貼り付けたような鳥居はちょっと珍しい。
本体の素材は外からでは分からない。
現在地に移ってきたのは明治34年(1901年)だそうだけど、社殿などは戦後のものと思われる。

周りを囲まれていないのでさらされ感が強い。
隣は保育園になっている。
場所は、名鉄瀬戸線の小幡駅から西へ400メートルほど行ったところで、瀬戸街道から北へ少し入ったところにある。
南西にある小幡宮前交差点の名前は、この神社から来ているのだろう。
ここからほぼ真北、600メートルほどのところにある生玉稲荷神社は去年訪れた。

社殿は一段高いこんもりとした小山の上に建っている。
小山に見えたのは、小幡南島古墳という円墳だそうだ。
このあたりで小さい古墳がいくつも見つかっていて、小幡古墳群と称されている。
昭和の発掘調査では埴輪や須恵器の破片が見つかった他、周濠らしき遺構も発見されたという。


創建について詳しいことは分かっていない。
平安時代の815年、嵯峨天皇の命で編さんされた古代氏族名鑑「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると、500年代後半から600年代頃、欽明天皇の皇子である小墾田王(おはるだおう)という人物がこの地に住んでいて、神社を建てたのが始まりという。
ただ、その頃はまだ白山神社だったはずはない。白山比咩神社の元になったのが716年創建で、白山を開いた泰澄が白山に登ったのが717年から718年にかけてだから。
そもそもこの地にあったのは、愛宕神社(あたごじんじゃ)だったという。周辺にあった白山神社や神明社、諏訪社を合祀して白山神社と名を改めたのが明治43年のことだった。
小墾田王云々というのは字東城にあった旧白山神社の話で、移される前は村社だったというから、それなりに格式のある神社だったのは間違いなさそうだ。
ついでに書くと、愛宕神社の総本社は京都にあって、京都市の愛宕山における愛宕信仰から来ている。
ここでも泰澄が絡んでいて、修験道の祖とされる役小角とともに朝日峰に神廟を建立したのが始まりとされている。
愛宕神社は全国に1,000社ほどあるそうで、東北地方に多いのだとか。
火防の神であり、戦いの神でもあった。
直江兼続の有名な愛の兜は、愛宕信仰の愛だったのではないかという説がある。
古墳の上にいつ誰が愛宕神社を建てたのか、今となっては分からない。
欽明天皇の皇子がどうして尾張の田舎にいたという伝承が残ったのか、そのあたりも謎だ。
祭神としてイザナミ(伊邪那美命)、カグツチ(火具土命)、ククリヒメ(菊理比売命)、アマテラス(天照大皇神)、タケミナカタ(建御名方命)が祀られている。
白山神社の定番は、ククリヒメ、イザナギ、イザナミの三柱なのだけど、どういうわけかイザナギが抜け落ちている。
死んだ妻のイザナミを追いかけて黄泉の国へ行ったイザナギ、しかし変わり果てた姿に驚き逃げるイザナギ、追いかけるイザナミ。その間を取りなしたのがククリヒメだったという関係がこの三者だ。
白山の神である白山比咩神がどういう経緯でククリヒメと同一視されるようになったのかはよく分かっていない。





近場はだいたい回ったような気でいたけど、よくよく調べてみるとまだ知らない小さな神社がいくつも見つかった。地道にちまちまめぐっていくことにしよう。
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