
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm F3.5-5.6
神宮を撮りに行くシリーズの第6回。今回から内宮編となる。
五十鈴川の河原から宇治橋を見る。

神宮は何故、伊勢だったのか?
その問いに対する答えに、神宮の本質があるように思う。
『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時に天災や疫病の大流行で人口が激減するということが起こり、宮殿でアマテラスとヤマトノオホクニタマ(倭大国魂)を一緒に祀っているのがよくないんじゃないかということになり、崇神天皇は娘の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に命じて、笠縫邑(かさぬいのむら)という場所でアマテラスを祀ることにした。
笠縫邑の場所の候補はいくつもあって、桜井市三輪の檜原神社ではないかなどと言われている。
現実的な年代でいうと、だいたい300年くらいのことと考えられる。
邪馬台国の卑弥呼が死んだのが247年とか248年とすれば、それから50年ほどあとの時代のことだ。
しかし、そこでは落ち着かず、トヨスキイリヒメは三種の神器のアマテラスのご神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を抱えて各地を転々とすることになる。
それを引き継いだのが、第11代・垂仁天皇の皇女・倭姫命(ヤマトヒメ)だった。
ヤマトヒメは、ヤマトタケルの叔母に当たり、タケルが東征するときに天叢雲剣を渡したあの人だ。その後、件は草薙剣と名前を変え、熱田神宮で祀られることになる。
トヨスキイリヒメとヤマトヒメがたどった足跡は、元伊勢と呼ばれ、大和を中心として丹波や吉備、伊賀などに残っている。
最終的に伊勢に落ち着くまで60年だか90年だかの歳月が流れたという。
『日本書紀』は、天武天皇の発案で編さんが始まったとされる歴史書だ。それ以前にも『帝紀』や『上古諸事』などがあったとされるが、現在には伝わっていない。
伊勢の神宮が現在のような体裁が整えられたのも、この時期だった。式年遷宮も持統天皇の690年に始まったとされている。
伊勢の地にアマテラスが祀られるようになって300年ほどのちのことだ。
しかし、原初のアマテラスは、天武持統の祀ったアマテラスと同一の神なのか?
たぶん、違うと思う。
天武持統によって伊勢の神宮が造営されたとき、天皇の皇祖神も入れ替わったんじゃないだろうか。私たちが抱いているアマテラスのイメージは、天武持統たちによって作り上げられたもので、それ以前に信仰されていたアマテラスとはまったく別のものではないかということを頭に入れておく必要がありそうだ。
であれば、持統の次の文武天皇のときの720年に完成した『日本書紀』がいうところのアマテラスを祀る場所を探すために各地をさまよったという話をそのまま真に受けていいのかどうかということになる。60年だか90年だかは、あまりにも長くかかりすぎている。
『日本書紀』は、天武天皇の命で、『古事記』の完成を待たずに同時進行で編さんが始まっている。『古事記』は8年前の712年に完成した。
伊勢に祀られる前に各地をさまよったうんぬんという話は『古事記』には出てこない。
誰が「元伊勢」などという言葉を使い出したのか、というのがある。
現在、一般的に知られている「伊勢神宮」という呼び名は正しくない。正しくは、「神宮」だ。のちに鹿島神宮や香取神宮などが誕生して、区別するために伊勢神宮と呼び習わされているに過ぎない。
その神宮は、内宮、外宮と含め、摂社、末社など、125社を総称したものをいう。
伊勢は地名であって、伊勢神宮は正しくないとすると、元・伊勢という言い方はおかしい。元・神宮なら分からなくもないけれど。
元伊勢が昔からの言い方であるとするならば、動いたのは神宮ではなく伊勢の方だったのか。では、伊勢とは何なのか?
伊勢という地名の由来にも各説あってはっきりしたことは分からない。発音に由来するものなのか、かつてこの地を治めていたという伊勢津彦(イセツヒコ)から来ているともいわれる。
イセツヒコは出雲系の神で、天津神によって国譲りをさせられて伊勢を追われたという説もある。
トヨスキイリヒメとヤマトヒメがさまよった歳月とは一体なんだったのか。
そして、何故、伊勢だったのか、という最初の問いに戻る。
地理的に優れていたとか、風水によるものだとか、アマテラスのお告げだとか、そういったぼんやりした理由ではなく、当事者たちにとってもっと切実で動かしがたい理由があったに違いないのだ。それが客観的に見て正しいとか理にかなっているとかではなく。
この謎を解かない限り、伊勢の神宮の本質は理解できないように思う。
内宮と外宮が離れて分かれているのはどうしてか。サルタヒコとの関係は。最初のアマテラスとのちのアマテラスは別なのかどうか。タカミムスビとアマテラスの関係性はどういうことだったのか。
ひとつ、手がかりとして、三種の神器が重要な鍵を握っているような気がする。
当初、天皇にとってどれほど重要なものだったのか分からないけれど、皇女とはいえ巫女に持たせて宮廷の外に祀らせても大丈夫なものだったのかどうか。ひとりの巫女が背負うには荷が重すぎるのではないのか。長い年月の中で焼けたり失われたりしたともいう。
そもそもは、アマテラスが天孫降臨のニニギに持たせたとされる八咫鏡、八尺瓊勾玉、天叢雲剣は、現在、鏡は神宮に、剣は熱田神宮に、勾玉は皇居にあることになっている。
伊勢がさまよったことと神器は何らかの関係があるのかないのか。
私は歴史学者でも、古代史マニアでもないから、必ずしも真実が知りたいわけではない。知りたいのは、当時の人たちの気持ちの部分だ。客観的な事実ではなく、彼らの主観的な思いの方に興味がある。
何を思い、何を願い、日々をどういう気持ちで過ごしていたのだろうか。それを知るためには、ある程度の歴史の流れを知っておく必要がある。
彼らもまた、時代や立場は違っても、私たちと同じく、この世界を生きたひとりの人間にすぎない。理想を描きながらも、現実との戦いの中で生きていたはずだ。
歴史を知るためには、彼らと同じ場所に立って、同じ視点で世界を見てみなくてはいけない。自分ならどうするだろうと考えたとき、かすかに見えてくるものがあるような気がする。
あれから時が流れて千数百年。伊勢の地に立って、当時のことを思ってみた。紛れもなくそこは、彼らと地続きの場所だ。










つづく。
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