400年後の牛一はこの世界を見て何を思い何を書くだろう 2006年11月8日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
北区の成願寺

OLYMPUS E-300+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f3.5, 1/40s(絞り優先)



 日曜日に放送した歴史ドラマ「信長の棺」は、なかなか面白かった。『信長公記』の作者である太田牛一(ぎゅいち/うしいち)の視点から描く本能寺の変の謎解きという発想もよく、主役の松本幸四郎の嫌味のない存在感が作品とよく合っていた。原作『信長の棺』の作者は加藤廣。作者は74歳でこれが初の作品なんだとか。
 それが昨日、ふとしたきっかけで成願寺(じょうがんじ)のことを知った。このあたりは太田牛一の故郷で、中でも成願寺は牛一が信長に仕える前に修行していた場所だという。これはもう行くしかないだろうということで今日早速行ってきた。

 かつてこのあたりは、尾張国春日井郡の山田庄安食(あじき)という地名だった。この地を支配していたのは山田一族と安食一族だったというで、そこから来ていたのだろう。現在は庄内緑地の東南あたりで、北区になる。名古屋方面からは、国道41号線を北上して、「中切町4」の交差点を右折、3つ目の信号を左折して細い道に入っていくと突き当たりに成願寺がある。駐車場はないけど、周囲は駐禁じゃないので短時間なら停めておいても大丈夫そうだ。
 正式名は「慈眼山 成願寺」。天台宗聖徳寺の末寺として745年に行基が創建と言われている。元は「常観寺」という名前だったのだけど、川の氾濫で丸ごと流されてしまい、山田次郎重忠が再建したときに現在の成願寺と改めた。もともとはここより北にあったそうだ。それが矢田川河川敷の改修に伴って今の場所に移された。こんな諸々があって、現在はかつての古寺の面影はまったく残っていない。非常にこじんまりしているというか個人宅のお寺のようで、太田牛一のことを知らなければ入っていくのがためらわれるような感じだった。門をくぐってホップ、ステップ、ジャンプで本堂に頭から突っ込んでしまいそうになる。全盛期のカール・ルイスなら確実に扉を突き破って賽銭箱を壊してしまうだろう。
 しかしここには、行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩立像というお宝がある。これは名古屋市内に現存する最も古い仏像なんだそうだ。
 成願寺は、安食の戦いの舞台でもある。1553年、尾張を統一する前の信長は、清洲の織田氏軍とここ成願寺前で戦うこととなる。そのときの信長勢の中に、柴田勝家らとともに太田牛一も加わっている。結果、戦いは信長軍の勝利で終わった。

 太田牛一というと、信長の生涯を描いた『信長公記』の作者として有名ではあるけれど、武将としてはあまり知られていない。最初、信長家臣の柴田勝家に仕え、そこで弓の腕を認められて信長直属となった。のちに信長の周辺警護を担当する六人衆の中の「弓三張」のひとりとして選ばれていることからも、弓に関してはかなりのものだったのだろう。知行も3千貫あったというから、武将しても有力だったということになる。文官としてのイメージが強く、祐筆(現在でいう秘書官のようなもの)だったとされることがあるが、そういう記録はないらしい。物事に通じている側近として政治的な助言などをしていたのだろうか。『信長公記』を完成させるのはまだずっと後の話だ。
 1582年、本能寺の変のときは、55歳で近江国鯰江の代官をしていた。なので、当然本能寺の変を間近で見ていたわけではない。『信長公記』の本能寺の変に関して本当のところが分かってないのは、そういうわけだ。牛一にしても聞けるだけの話は人から聞いただろうけど、それがどこまで事実だったかは本人にも分からなかったに違いない。ただ、もしその場にいたら生きてないだろうから、『信長公記』そのものが書かれなかったとも言える。
 信長の死後、しばらく消息がはっきりしない。加賀の松任に蟄居させられたとか、丹羽長秀に仕えたとか言われている。次に公式に登場するのは1589年で、豊臣秀吉に仕えて、検地奉行や代官職を務めている。この頃は、秀吉についての記録を書かされたり(『大かうさまくんきのうち』)、朝鮮の役では弓大将として肥前名護屋に赴いたり、醍醐の花見で警護をしたりしている。
 秀吉の死後は、息子の秀頼にも仕えた。豊臣家滅亡後、ようやく隠居を許され、いよいよ『信長公記』の執筆とまとめに入る。完成したのはもう江戸時代の1610年。牛一が84歳のときだった。これより先、太田牛一の記録は残っていない。いつまで生きたのかも分かってない。
 それにしても、戦国時代の80年は長かったろう。若き日の信長が天下を目指して駆け抜けていくのに必死についていって、それが途中で破れて豊臣の時代になり、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝って江戸幕府を開いて、そこからさらに何年かを見たのだ。牛一は人生の最期に何を思っただろう。
 歴史が太田牛一という人物を得たのは幸運なことだった。現在、私たちが知る信長の所業については『信長公記』によるところが大きい。読み物としてではなく、歴史的資料としてこれに勝るものは残されていない。ヒーローは書き手を持って初めてヒーローたり得るということだろう。影のヒーローとして、名古屋人や愛知県民はもっと太田牛一を誇ってもいい。



ザ・シーン城北夕暮れ
PENTAX istD+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/15s(絞り優先)

 成願寺から北へ歩いて2分、矢田川の土手を駆け上がると、目の前には庄内名所「ザ・シーン城北」が大きな顔をして建っている。今から10年前の1996年に、名古屋初の超高層マンションとして誕生した。地上45階、高さは160メートルで、当時は日本一の超高層マンションだった。現在は11位に落ちたとはいえ、まだ六本木ヒルズレジデンスより高い。高いといえば値段も相当高いんだろうけど、調べると落ち込みそうなのでこのまま知らずにいようと思う。中には住民専用のスポーツクラブなんかもあるらしい。貧乏人はその足もとの矢田川河川敷を走るしかない。
 周りに高い建物がないので、非常に唐突な印象を受ける。ちょっと寂しげでさえある。何しろできたときのキャッチフレーズが「おとなりさんは御嶽山」だ。それはあんまり嬉しくないぞ。住めないまでも上の方の階から景色を見てみたいとは思う。そんな貧しい人間を憐れんでか、東海テレビのお天気カメラが設置されていて、ネットでライブ映像を見ることができる。
 このザ・シーン城北のすぐ下に、「矢田川河川噴水」がある。どこにあるのかと思ったらこんなところにあったのか。しかし、待てど暮らせど噴き上がってくる様子はない。夕方とはいえまだ5時前だったし、本来なら吹いている時間帯のはずだ。案内板にも「10分間運転、5分間停止をくり返します」と書いてある。どうやら壊れたらしいという噂もあるけど、そうなのだろうか。それとも、噴水制限か何かがあるのか。

 戦国時代から平成にひとっ飛びの庄内散策。牛一がこの光景を見たら、言葉を失ってしまうだろうか。おやかたさまが目指した日本はこんなものじゃないと泣き崩れるかもしれない。安土城もいまだ再建されてないし、織田信長を祀る神社ひとつできてない。墓もあるようなないようなだ。牛一にとって今の時代は書くべきことが何もない時代と映るかもしれない。
 現在を生きる私たちはこの時代に何を書き残そう? この人のことだけはどんなことでも書き記しておきたいと願う人がいるだろうか? そう考えると、太田牛一の生涯は幸せだったと言えるだろう。80を超えるまで確かな使命感を持ち続けることができたのだから。
 
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