桶をふたつかついで玉の輿に乗ろう大作戦in大森 2006年10月31日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
大森寺前

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/15s(絞り優先)



 守山区の大森(おおもり)に、大森寺(だいしんじ)という寺がある。あまり有名ではない。もしかしたら、歩いて3分の距離にある金城学院の学生でもあまり知らないかもしれない。しかしこの寺、ちょっとした由緒のある寺なのだ。
 創建は江戸時代の1661年。尾張藩二代藩主だった徳川光友(みつとも)が、母親の歓喜院乾の方の菩提寺として作ったのが始まりだ。大森は乾の方の生まれ故郷で、それまで江戸の小石川伝通院にあったお墓をここに移してきたのだった。
 正式名称は、「興旧山歓喜院大森寺」。門をくぐって中に入っていくと、ちょっと雰囲気のある石畳があり、モミジなどもあって、紅葉の季節には絵になりそうだ。山門は閉ざされていた。いつもなのかどうかはよく分からない。これ以上入っていけないかと思うと、山門の横に道があるので、そこから回り込んで入っていける。するとそこは、むむ!? なんだ? 民家の庭風。たくさんの木々や竹林に囲まれていて、旧家の庭のような感じになっている。いわゆる普通のお手さんとは違っていて戸惑いを隠せない私。鐘楼があるから間違いなく寺なんだけど、本堂もどれがそうなのか判然としない。観光用の寺じゃなければこれが普通なのだろうか。大部分の建物は明治8年の火事で燃えてしまったそうなので、建て替えるとき普通の民家風にしたのかもしれない。本尊の阿弥陀如来だが無事だったのは幸いだった。乾の方の墓は本堂の裏手にあるらしい。
 ここは名古屋でも貴重なヒメボタルの生息地として一部で有名だ。夜は解放してるのかどうか知らないけど、来年は機会があったら行ってみたいと思う。ただ、うっかり入っていって和尚に捕まったりしないように気をつけよう。あの肩を叩く木のヤツで、いきなり背後からピシャーンとやられたら心臓マヒで昇天してしまうかもしれない。

大森寺山門

 山門にかかっている額の「興旧山」という文字は光友自筆なんだそうだ。ほうほう、なるほど。でもこんなとき、字が下手じゃなくてよかった。当時は日ペンの美子ちゃんとかないし。私はいまだにエーカンのペン字マシーンをときどき思い出したように弾いているけどね。

 ここで尾張藩についてちょっと勉強してみたい。徳川御三家筆頭として、尾張藩は明治の廃藩置県まで17代(16人)の藩主が名古屋城を守り続けた。しかし、ついにひとりの将軍を出すこともなく終わった御三家でもあった。御三家といえば、舟木一夫と橋幸夫と西郷輝彦だよね! なんて言ってる場合じゃない。尾張藩からもひとりくらいは出しておきたかった。
 初代藩主は、徳川家康の九男・徳川義直で、この人はなかなか立派な人だった。3代将軍家光とは叔父甥でライバル関係にあって、もしかしたら将軍になっていた可能性もあった。本人もやる気満々で、家光が病気になったとき、大軍をひきつれて江戸まで行って騒動になったりもしている。
 2代目光友はその長男で、25歳のとき父の死によって家督を継いだ。ひとり息子ということもあって苦労知らずなところが当時の人たちには歯がゆく映ったこともあったようだ。良く言えば文武両道の風流人、悪く言えば道楽者といった感じだろうか。それゆえ、足跡や業績がたくさん残っている。
 元々尾張藩は金があった。表裏あわせて70万石ほどの実入りがあったから、かなりいろいろできた。特に神社仏閣などには力が入っていたようで、この大森寺を建てたり、熱田社などを改築したり、徳川家の墓所として建中寺を建てたりしている。
 その他、鷹狩りをするために、東海市の高横須賀町に豪華な別荘を建てたり、極めつけは江戸の下屋敷があった新宿区戸山に現代でいうところのテーマパークなんかも作ったりもしている。東京ドーム10個分の広さの土地に、東海道の小田原宿を原寸大で再現して家臣たちと小田原宿遊びをしていたという。更に土を運んで箱根の山まで作ってしまうという力の入れよう。もちろん、宿屋や商店などもそのまま再現してるから、家臣や家族たちは町人などに扮しなければいけない。そりゃあ陰口も叩かれようというものだ。けど、こういう人、私は好きだなぁ。現在でも、光友が作ったニセ箱根山が東京23区で一番高い山というのも笑える。
 武も風流も好んだ光友は、自らも新陰流を習って尾張に広めたりもした。花菖蒲の江戸系と呼ばれるものは、光友が江戸屋敷の庭で各地の野生の花菖蒲を掛け合わせて作っていたものが元になっている。
 今でも愛知名物となっている坂角(ばんかく)のえびせん「ゆかり」の生みの親は光友だったりもする。知多へ遊びに行ったとき、浜辺で漁師がエビのすり身をあぶって焼いてるのを見て、試しに食べてみたらとっても美味しかったので、これを本格的に作って城に持ってくるようにと命じたことで「ゆかり」は生まれ、以降徳川家への献上品となったのだった。

 生まれながらの殿様育ちの半面、豪放でやや品のないようなところは母親譲りと言えるかもしれない。
 大森の百姓の娘として生まれた光友の母・乾の方は、本来なら殿様の子供など産むような境遇にはなかった。初代藩主の義直は鷹狩りが好きで、よく春日井原の方に遠出をしていた。あるとき、帰り道で突然の雨に襲われた義直一行は、大森で雨宿りを余儀なくされた。突然のお殿様の到来に村はてんやわんやの大騒ぎとなる。今だって急にうちに安部首相が訊ねてきても困るけど、当時の藩主と町民、百姓の差はそれどころではない。殿様が通るときは地面にひれ伏して顔を上げてもいけなかった時代だ。
 乾の方も一行のお世話をするためにて大わらわで舞い上がってしまった。大の力持ちだった乾の方は、たっぷりのお湯が入った桶をふたつもかついでうろうろしていたら、うっかり殿様のところに迷い込んでしまい気が動転。思わず取り落とした桶のお湯が殿様にかかってしまった。本来なら完全に切り捨て御免コース一直線のところ、人生何が起こるか分からない。義直は、桶をふたつもかつげる女なら、さぞや立派な男の子を産めるに違いないと惚れ込んでしまった。乾の方は、そのまま義直の側室となり、だだひとりの男子光友を生むことになる。ただ、あまりにも生まれ育ったところと環境の違うお城暮らしは、乾の方にとって幸せなものではなかったようだ。人生、何が災いするか分からない。

 光友の正室は、オヤジさん同士が仲の悪かった3代将軍徳川家光の娘・千代姫だった。しかし、この縁談はいろんな意味で金のかかるものとなり、大火で江戸の上屋敷が焼け落ちてしまったことなども重なり、尾張藩の財政は一気に傾くこととなる。
 それでも光友はめげたりはしない。68歳のとき隠居して家督を長男の綱誠に譲ると、現在の大曽根あたりの土地を買い込んで、大隠居屋敷を建てて、そこに移り住んだ。13万坪というから、相当な広さだ。現在はその場所に徳川園と徳川美術館がある。
 初代藩主の義直は本人が気に入っていた瀬戸の定光寺に墓があり、光友など歴代の尾張藩主は、光友が建てた建中寺が墓所となっている。
 大森寺あたりを観光で訪れる人は少ないだろうけど、こんな場所にもそんな歴史があったのかと思いながら訪ねてみると、ちょっと感慨深いものがあるかもしれない。
 5月の中頃、深夜に大森寺の境内でモゾモゾしている怪しげな男がいたら、ヒメボタルを観察している私の可能性があります。いきなり脅かしたり通報したりしないでください。怪しい者ではありません。
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