
Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/80s(絞り優先)
メジャーでもなくマイナーでもないお城のことを、歴史にあまり興味がない人に説明するのは難しい。たとえばこの清洲城などがそうだ。戦国時代が好きな人には説明するまでもない城だけど、日本史なんてまったく興味ないワって人に向かって清洲城が信長にとっていかに重要なお城だったかを熱く語ってもたぶんダメだと思うのだ。言葉を重ねれば重ねるほど遠くなるふたりの距離。ロミオとジュリエットの片方だけロミオ状態に陥って、手を伸ばしてもジュリエットは窓を閉めて寝てしまう。一体私は誰に向かって清洲城のことを語ればいいのだろう?
語りかけるべき対象を上手くイメージできないまま、とりあえず「功名が辻」は観てるけど戦国時代はそんなに詳しくないかな、っていう人あたりを想定して書いていきたいと思う。途中で脱落者が続出しても気にせず進みますので、付いてこられるところまで付いてきてください。
今川義元の大群が京都へ上洛するため(上洛ではなかったという説が近年有力らしい)尾張に向かっているという報告が届いたとき、信長は清洲城にいて動かない。2万5,000の今川軍に対して織田軍は3,000。目前の丸根、鷲津の両砦を攻撃されているという知らせを受けてもまだ動かない。深夜、信長は「敦盛」を舞い、立ったまま湯漬け(お茶漬けのお湯版)をかき込んだかと思うと突然の出撃命令を出す。ええーい、出陣じゃぁー! ワシに続けー! と叫びながら清洲城を飛び出していったのが早朝4時のこと。そんなこと急に言われても困ってしまった武将たちが今度は動けない。わずかに続いたのは5騎のみ。行く先は熱田神宮だった。
地図を見ると、清洲城から熱田神宮までは直線距離にして南東に12キロくらいだろうか。車の渋滞はなくても当時の道路状況を考えると気軽に馬でひとっ走りという距離ではない。馬で駆けに駆けて、熱田神宮に到着したのは朝の8時だった。昔の人は本当に元気だ。
戦勝祈願を終えた後、最前線に近い善照寺砦に入ったのが午前10時。その頃には、遅れていた後発部隊もようやく追いつき、なんとか合流を果たす。昼12時、今川義元の部隊が桶狭間に入って休憩してるという知らせを聞き、信長勢も中島砦に進む。午後1時、突然の雷雨。雨でおじゃるよ、なんとかせい、などと怒鳴りつけてる今川義元。豪雨はほんのいっときで上がり、好機到来とばかりに、かかれー! の合図と共に一斉に突撃する織田軍。急襲というとだまし討ちのように聞こえるけど、このときの織田勢は正々堂々の正面突撃だった。ひとかたまりになって本陣を目指す。
雨に気を取られてすっかり油断していた今川軍は、たちまち大混乱に陥り、さんざん打ち負かされて大敗走。戦うどころか武器を捨てて逃げる連中もいたりして、1時間もたたずに勝負は決まった。午後2時、今川義元捕まる。弱小と侮っていた織田勢によもや負けるなんて思いもしなかったことだろう。このとき今川義元49歳、織田信長27歳。信長はたちまち天下に名をとどろかすことになる。
また別のとき。豊臣秀吉が信長の草履取りとして仕えたのもこの清洲城だった。あるいは、信長が本能寺の変で死んだ後、後継者を誰にするかを決めるために開かれたのもここ清洲城で、清洲会議として有名なエピソードになっている。
清洲という地は、今でこそ知名度が低くなっているものの、徳川家康が尾張の首府を名古屋に移すまでの200年間、清洲こそが尾張の首府だったのだ。その中心が清洲城だったわけだから、戦国の歴史上、重要な意味を持つ場所だったのは当然と言えば当然だ。関ヶ原の合戦のとき、東軍の先発部隊が集まっていたのも清洲城だった。
ここまで書いて、まだ全体の3分の1くらいでしかないと言ったら、更なる脱落者を生んでしまうだろうか。これはまずいぞ。源頼朝のことを書いたときと同じではないか。あのときのように前編、後編に分かれそうな予感がしてきた。というか、そうなると思う。桶狭間の合戦について詳しく書きすぎたのが失敗だ。でも、気を取り直して続きを書こう。
みなさーん、付いてきてますかー? こっちですよー。まだまだ先は長いから頑張りましょうねー。って、なんだかか頼りにならないツアーコンダクターみたいになってないか私。
清洲城ができたのは、1404年(1405年という説も)。室町幕府の尾張守護職だった斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として築城したのが始まりとされる。1476年、下津城が戦乱で焼け落ちてしまい、守護所がこの清洲に移ってきたことから清洲の繁栄が始まる。
やがて斯波氏が力を失い、それに代わって勢力を伸ばしてきた織田家の本城となる。1555年、少し前にオヤジさんの織田信秀が死んで家督を受け継いだ信長が、城主だった織田信友を攻めて、清洲城を奪い、それから10年間、ここは信長の居城となる(信長が生まれたのは、今の名古屋城がある場所にあった那古屋城)。この10年間は尾張の統一にかかった時間だ。かなり苦労している。
続いて美濃攻略のため、信長は小牧山城に移り、以後は番城となった。ただ、城主の顔ぶれはそうそうたるものだ。信長のあとは嫡男の信忠が9年間、信忠亡き後は次男の信勝が9年、豊臣の代になってものちの関白・秀次が6年、関ヶ原の合戦当時は福島正則(5年)、関ヶ原ののちも家康の四男・松平忠吉が8年、家康の九男・義直が7年、それぞれつとめている。
そんな重要視されていた清洲城も、江戸時代に入って戦争がなくなるとあまり用を足さなくなってきた。そして家康は名古屋の地に大きな城を築城することを思いつく。元々信長親子が城主としていて、清洲に移ってからは廃城となっていた那古屋城があった場所に建てたのが今の名古屋城というわけだ。そして、有名な「清洲越し」がやって来る(1609年からの4年間)。
「思いがけない名古屋が出来て、花の清洲は野となろう」と、当時歌われたように、6万人の都市が全移動となったのだから、清洲は空っぽ同然になってしまったのだった。今でいう遷都などよりももっと大がかりなもので、街をひとつ全部家や建物ごと移してしまったようなものだから、本当に清洲は何にもなくなってしまった。その後の大洪水などもあり、清洲城も影も形も残っていない。再建された清洲城の天守閣は、まったくの勘で作られている。
というわけで、案の定、後編に続く、となった。歴史に触れすぎて、清洲城そのものについてまだほとんど書けてない。明日はそのあたりのこともきっちり書いて、清洲城物語を完結させたい。
みなさーん、今日はここで野宿になりました。ええー!? そんなの聞いてないぞー、って? おむすびを配りますので、今日はゆっくり休んで明日に備えてください。明日も長丁場になりそうですので。
ええーと、出発地点からずいぶん人数が減ってるような気がするけど、気のせいかな?