
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
羊神社という名前の神社が名古屋にあることを知ったのは、もうかれこれ10年ほど前のことだ。どういういきさつだったかは忘れてしまったのだけど、村上春樹の『羊をめぐる冒険』についてブログで触れたときだったんじゃないかと思う。
それから月日は流れて2015年、未年の今年、ようやく行くことができた。12年前は知らなかったのだから、このタイミングで訪れるのはある意味では必然だったといえるかもしれない。
12年に一度だけ賑わう神社、そんな言われ方をする羊神社。式内社ということで1000年を超える歴史を持ちながら普段はあまり訪れる人もないという。住宅地の中にようやく残されたといった風情のこぢんまりとした神社だ。
今年の初詣もたいそうな賑わいだったようで、ニュースでもよくとりあげられていた。例年の10倍作ったお守りも元日で完売して、追加で作った分もまた売り切れて、未年の年だけで12年分儲かってしまうのだった。
羊という名前はついていても、羊とは何の関係もないというのに。
羊神社を知るには、まず多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)について勉強する必要がある。
天武天皇治世の飛鳥時代、上野国(群馬県)、多胡郡の郡司だったとされる伝説の豪族が羊太夫だ。
伝説というくらいだから実在ははっきりしていない。文献や碑文に出てくるからいたんじゃないかなというくらいのようだ。
埼玉県の秩父あたりで和銅(ニギアカガネ)が発見されて、それを朝廷に献上したところ、年号が和銅に変わり、褒美として多胡郡の郡司の地位と、藤原不比等から藤原氏までいただいてしまったのが羊太夫だったとかそうではなかったとか。
そんな羊太夫がどうして名古屋の北区あたりに関わってくるかというと、韋駄天伝説というのがある。
羊太夫には飛ぶように高速で駆ける家来がいて、それに乗って群馬から奈良の都に毎日通勤していたというのだ。現代でも新幹線の直通くらいじゃないと無理なんじゃないかと思わせるほどのすごい長距離通勤。
その途中でちょくちょく立ち寄った屋敷が、名古屋の北区にあって、そこの安全祈願として火の神を祀ったのが羊神社のおこりなんだとか。
全然納得できる話ではないけど、そもそもどうしてそんな話が伝わってきたのかを考えることは無駄ではないように思う。今となっては知る手がかりは残ってなさそうだけど、ずっとさかのぼれば羊太夫にまつわる何らかのエピソードがあって、それにちなんでこの神社が建てられたということは言えるのかもしれない。
このあたりの地名を辻町という。かつては火辻という字を当てていて、その後、火の字を嫌って辻町としたという。火辻の地名を羊という字に当てたかといえばそうではなく、平安時代の延喜式には山田郡羊神社とあるから、やはり羊の方が先だったようだ。
羊太夫と羊神社がまったくの無関係だとすると、羊をめぐる謎はさらに深くなる。羊は紀元前数千年前から家畜として飼われていたと考えられているようだけど、日本には当然野生の羊などはおらず、一般人が羊のことを知るのは江戸時代以降のことだ。朝廷への献上品として持ち込まれたということでいえば、599年、推古天皇に向けて百済から送られてきたという記録があるそうだ。
羊という字や呼び方に動物の羊以外の意味があるのかどうか知らない。
話がだいぶ脱線した。

1月の後半でさえまだこの人気。三が日は境内の外まで長蛇の列ができていたことだろう。




式内社がどうだとか、由来がどうかなんてことは考えず、わー、ここにも羊がいるー、などと単純に楽しむのが羊神社の正しい参拝と言えるかもしれない。


祭神は火之迦具土神(カグツチ)。
イザナギとイザナミとの間に生まれた子供で、イザナミの大事なところに火傷をおわせて死なせてしまい、怒ったイザナギに天之尾羽張で斬り殺されてしまった神だ。
火伏せの神として秋葉神社などで祀られている。
江戸時代には神明社と称されていたらしく、配神としてアマテラスも祀られている。

第二次大戦の名古屋空襲では周辺は焼けたのに羊神社だけは焼け残ったという。カグツチの力か。
現在の社殿は、江戸時代初めの慶弔8年(1613年)に再建され、天保9年(1838年)、尾張藩主の徳川斉温によって改築されたという記録が残っている。


隣に建つ修善寺は神宮寺だったのか違うのか。
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