
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
味鋺神社へ行った流れで、北区の式内社をまとめて回ろうという気になった。
北区に古い神社が集まっていることが偶然だとは思わないけど、ひとまとめにして考えるのは間違いだろう。それぞれ成立時期も由緒も違う。
黒川交差点の北350メートルほどのところに綿神社がある。
話によると、弥生時代までさかのぼるというほど古い神社だ。
名前の綿は木綿とかから来ているのではなく、海の神である綿津見神(ワタツミ)から来ている。ワタツミは「古事記」では海神とも表記したくらいで、海のことを指してもいる。朝鮮語で海を意味するパタという音の当て字という説もある。
ワタツミといえば、個人的には安曇野にある穂高神社を思い出す。
そして、このあたりの地名は志賀といい、志賀町、元志賀町、志賀本通など、現在でも呼び名が多く残っている。
安曇族に志賀とくれば、歴史に興味がある人ならすぐにピンとくるかもしれない。九州の筑紫、滋賀島から弥生人が海を渡ってこの地にやってきて住みつき、志賀と名付けて故郷と同じ神を祀ったのだろう。向こうには本家といえる志賀海神社がある。
北区と海は今では結びつかないけど、弥生時代はこのあたりまで海岸線が来ていたというから、海岸に近いところに集落を作ったと考えられる。
神社としての創建年は不明とのことだ。
隣にある曹洞宗霊源寺もかなりの古刹らしく、かつては神宮寺だったのだろうか。

古い社殿は名古屋空襲で焼けて、現在のコンクリート製は昭和45年に明治百年の記念事業として再建されたものだそうだ。

綿神社に伝わるエピソードに、平手正秀の話がある。
織田信長の父・信秀の時代からの重臣で、信長の教育係(傅役)をしていたおじいちゃんが平手正秀だ。
ここから西に600メートルほどいったところに志賀公園という大きな公園があり、昔はそこに平手正秀の屋敷があったと伝わっている。
正秀が志賀城主となった頃には綿神社は荒廃していたようで、それを見かねて社殿などを再建し、鏡と手彫りの狛犬を奉納したという。
若い頃の信長の荒れっぷりはよく知られているところで、それにほとほと手を焼いていたのが正秀だった。なんとか奇行がおさまりますようにと、綿神社に祈願していたという。
しかし、願いも虚しく信長は改心せず、とうとう正秀は自刃してしまう。信長をいさめる最後の手段だったとも、息子と信長の仲違いが原因だったともいわれる。
正秀自刃の知らせを聞いた信長は駆けつけ枕元で号泣したんだとか。正秀を弔うため、小牧山のふもとに菩提寺を建てて、その後、すっかり心を入れ替えたといわれている。
政秀寺は小牧長久手の戦いで消失したあと、清洲に移され、江戸時代の清洲越しで中区に移った。若宮八幡の少し東あたりだ。
政秀の墓は、現在平和公園にある。


綿神社をあとにして、次に向かったのは別小江神社だった。
ここがそうかなと近づいていったら、違っていた。白龍神社というところだったようだ。

遠くに見えてきたのが別小江神社だ。

別小江神社とは読みづらく、覚えづらい名前の神社だ。わけおえと読む。
庄内川と矢田川が平行して流れるところで、もう少し下ったところで合流している。
我々の感覚からすると、川は上流から流れて海へ向かうものだけど、古代の人たちが海から渡ってこの地にたどり着いたとするならば、川がここで分かれていくといった感覚だったかもしれない。別小江というのは、川が分かれていくところという意味があるらしい。
昔は今より北東の千本杉というところにあったというから、もっと川沿いにあったと想像できる。
1584年に信長の息子・織田信雄が今の場所に移させたそうだ。どういう経緯でそうしたのかは分からないけど、川の氾濫とかも関係していたのだろうか。

ここも社殿は新しい。昭和41年(1966年)に再建されたコンクリート造のものだ。
創建は古く、式内社だから平安時代にはすでにあったことがはっきりしている。
祭神は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミと、メジャーなスター勢揃いといった感じで、綿神社とはまるで違う。距離にすると1.5キロほど離れているのだけど、当時の人たちの感覚で1.5キロというのがどの程度の近さなのかは想像がつかない。
もう一柱の蛭子命(ヒルコ)という神は馴染みがない。
イザナギ、イザナミとの間に最初にできた子ながら不具の子だったために葦の舟に乗せら流されて、神になれなかったのだという。
ただ、西日本にはヒルコが漂着したという伝承が残っていて、のちに恵比寿信仰と結びついて神として祀る神社もあるようだ。神戸の和田神社や、西宮市の西宮神社が代表的な神社とか。
その流れで蛭子を「えびす」と読ませることがあって、蛭子能収さんなどはひょっとするとその流れをくんでいるのかもしれない。
別小江神社は昔から安産や子供の神様としてよく知られた神社だったようで、鎌倉時代の源氏から織田、豊臣、徳川に至るまで大事にされていたという。
江戸時代は六所明神と称していたというけど、近くにある六所神社との関係はどうなのか。
名古屋城築城のときに加藤清正が稲置街道に架けさせた清正橋に使われていた石があるとのことだ。帰ってきてから知ったので、たぶん見ていない。
10月の例祭は神輿が出る華やかなものとのことで、一度見てみたいと思った。



一気に回ってしまいたかったのだけど、羊神社に着いた頃には日が暮れていたので、出直すことにした。

ここは何神社だったか思い出せない。
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