
Canon EOS Kiss Digital+SIGMA 18-125mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/500s(絞り優先)
久しぶりに布池教会(ぬのいけきょうかい)に行こうと思ってネットを検索していたら、南山教会(なんざんきょうかい)というのがあるというのを初めて知った。南山といえば、名古屋あたりではちょっとした私立有名学校で、小学校から大学まであり、賢い坊っちゃん、嬢ちゃんが通う総合学園だ。
実は、南山大学は私の受験の本命校だった。しかし、試験問題を見たとたんに、こりゃダメだと悟る。今まで勉強したことがないような難しい問題ばかりで、焦るのを通り越して笑えてきた。そもそも、受験勉強なんてものをほとんどすることなくぶっつけ本番で望んだ受験だったから、それも至極当たり前の話だった。こいつはいけねぇなぁと、休み時間に休憩室でタバコを吸いながら周りを見渡してみると、なんということだ! 誰ひとりタバコなんて吸ってないぞ! それどころか、みんな参考書を開いて勉強しているではないか。いよいよ自分は場違いなところに迷い込んだらしいと思う18歳の私であった。実際のところ、一年浪人して京都の大学へ行くつもりだったから、高校生のときは本当に勉強なってまったくしなかった。オレは本番に強いからもしかしていけるんじゃないのかという根拠のない自信で入れるほど南山大学は甘いところではなかったのだ。結果的には名城に引っかかって成り行きで入学することになったのだけど、名城の受験のときはトイレの中がタバコの煙で前が見えないほどだったのは素敵な思い出として残っている。
そんなことはともかくとして、南山教会のことを調べてみると、どうやら中まで入って写真も撮れそうだ。ここはひとつ行ってみるしかないだろうということで、やや及び腰ながら向かったのだった。タバコをやめてもう10年以上になるし、そろそろ南山も私のことを受け入れてくれるだろう。
カトリック南山教会は、昭和区南山町の学校が集まっている敷地内にある。残念ながら大学の方ではなく短大などが集まっているところだった。南山のキャンパスは今も私を拒むのか!? でも、短大の方なので違う意味で腰が引けがちだ。あまり怪しい人間という自覚はないのだけど、もしかしたら男ひとりで大きなカメラを持って敷地内をうろついていたら警備員に止められたり、通報されたりしないとも限らない。こういうときは堂々とするのがいい。コソコソ、キョロキョロしてると怪しまれるから。
とはいえ、駐車場に入っていく入口でも、駐車場から降りたところにも人影はまるでなく、逆に心配になるほどのフリーパス状態だった。教会を訪れる人に悪人はいないはずだという基本姿勢なのか、南山教会は予想を超えた広き門だった。駐車スペースも20台分くらいはあったから、たぶんミサのとき以外はとめられると思う。
さて、無事門をくぐったものの、聖堂の入り口が分からない。ここかなぁと扉を引いてみると、ガチャガチャと鍵がかかっている音があたりに響いて、うわっ! となる。いえ、私、不審者じゃないです、と誰にともなく言い訳したくなったり。トイレがあったので、ここはまずトイレに行って気持ちを落ち着かせようと思いきや、トイレの鍵までかかってる! うわー、と心の中で叫んで逃げ出したくなるのを抑え、冷静を装う私。いや、戸締まりの確認のようなものですよ、はは……。夕方でもう閉まってしまったのかなと思って帰りかけていると、信者さんらしきおばさまがやって来て、私と目があった。逃げろ! と逃げるには遅すぎたので、軽く会釈して何気なくおばさまのあとをつけていったら、ふいに振り返って、信者の方ですか? と問いかけられてしまった。あ、いえ、見学に来たのですが、と正直に答えると、ああ、それならどうぞ、どうぞと優しく入口まで案内してくれて、中に招き入れてくれたのだった。助かった。
もしあのタイミングでおばさまが来てくれなかったら、私はきっとあきらめて帰ってしまっただろう。それで二度と南山教会には行かず、無縁のまま終わったと思う。これもまた神の思し召し、なんていうと大げさだけど、これも縁というものだろう。どうもありがとうございます。

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/40s(絞り優先)
大聖堂内部は、さすがに現役の教会ということで厳粛さが漂う。教会特有の空気感に包まれ、体が馴染むのにしばらく時間がかかる。この空気に触れたら、相当なお調子者でも黙り込んでしまうことだろう。柳沢慎吾でもここでは持ちネタを披露できまい。
10分ほど椅子に腰掛け、パイプオルガンの音色に耳を傾けたり、当たりを見渡したりして気持ちを静める。少し時間が経って馴染んでくると、ああ、やっぱりこの空間は心地いいと思う。この独特の気持ちよさを初めて体験したのは多治見修道院だった。あそこはすごかった。次に訪れた布池教会でも同じような空気を感じた。ただ、教会の建物ならどんなものでも同じ雰囲気を持っているかといえばそうじゃない。歴史のある本物の教会を移築展示してある明治村のものは、どこの教会よりも立派だけど、見事なまでに教会特有の空気感が抜け去っていた。
先ほどのおばさまがお祈りを終えて帰っていき、私の体もいよいよ聖堂内の空気と同調したのを感じた。シャッター・チャーンス、アタック・チャーンンス(児玉清)。一番後ろの壁に張り付き、連写しまくりの私。しかし、レンズが50mmの単焦点で2倍換算になるE-1なので、実質100mm、これはちと苦しかった。ここで写真を撮るときは、明るい広角レンズがいい。ただ、E-1の静かなシャッター音は助かる。これがD30なんかのパコーンというような大きな音だと、聖堂内の静寂を引き裂いて、ワンショットごとに心臓がびくんっとしてしまいそうだ。温厚なイエスだって、ちょっとうるさいです、と怒ってくるかもしれない。

教会を撮る楽しみのひとつにステンドグラスとそれを通した様々な色の光がある。大きな一枚のステンドグラスもいいけど、ここの設計も素敵だった。神々しいという言葉が思い浮かぶ。
教会なんてものは信者さんや結婚式で使うだけのところ、という固定観念はきっぱり捨てた方がいい。一般人もごくごく普通に受け入れてくれる場所だ。日常生活とは明らかな異空間で、あの異質さは実際に礼拝堂に入ってみないと分からないし、説明できない。日曜日のミサに飛び込みでってのは無理だろうけど、平日なら解放してるところが多いから、ぜひ近くの教会にふらりと入っていくことをおすすめしたい。私のように教会好きとなる人もきっといると思う。
名古屋ではここの南山教会と布池教会は自信を持っておすすめできる。両方行ってそれぞれの違いを体感してくるというのもいい。布池は建物が素晴らしいので、またあたらめて紹介したいと思っている。
アナタハ、カミヲ、シンジマスカ? などと、いきなりフランシスコ・ザビエルのような人が話しかけてくることはないし、聖書を売りつけられるようなこともないので安心して欲しい。基本的にはこちらから話しかけなければ挨拶以上のことはないし、干渉されることもない。日本の神社などと同じようなものと思っておけば間違いない。教会体験はきっと貴重なものとなるはずだし、それが自分にとってマイナスになることはない。
教会を出た私は、教会に入る前の私とは明らかに違っていた。自分が浄化されたのがはっきり分かる。実にすがすがしい気分だ。このすがすがしさはちょっと他ではないかもしれない。道行く人みんなにおこずかいをあげたくなってしまうような気分とでも言おうか。もちろん、あげないけど。