
OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/40s(絞り優先)
ふと思い立って、千種区にある上野天満宮に立ち寄ってみた。今回が二度目で、初めて訪れたのは去年の3月半ばのことだった。1年半前の私と今日の私と、何か変わっていただろうか。変わったといえば変わったし、変わってないといえば変わってない。ただ、あのときは抱えていなかった願い事を今は抱えている。神社にお参りするときの作法も覚えたし、心構えも変わった。そういう部分では、天神さんも私の変化を認めてくれたんじゃないだろうか。
前回が3月中旬で梅は終わっていて、今回は9月の終わり。またもや季節はずれの時期に訪れてしまった。天神様といえばなんといっても梅と合格祈願だ。せっかくならどちらかの季節に行った方が雰囲気を味わえていいのだけど。それでもちょこちょこ入れ替わり立ち替わり参拝者が来ていた。黒い服を着て美しい参拝作法をしていた女の人はどんな願いを抱えていたのだろう。
名古屋三大天神のひとつである名古屋天神・上野天満宮の創建は990年。当時、都から左遷されて名古屋の地にやって来た安倍晴明が、好きだった菅原道真を祀ったのがはじまりとされている。でも実際のところ、安倍晴明が本当にこの地にやって来ていたという公式記録はない。どうやら安倍晴明の一族がこの地に飛ばされてきたというのが本当のところのようだ。ただ、安倍晴明が住んでいたとされる一年間は京都にいなかったという公式の記録が残っているだけに、満更でたらめでもないのかもしれない。このあたりの地名が、「安倍山」ではなく「晴明山」であるところからも可能性は感じさせる。近くには晴明神社があって、そちらにもちゃんと寄ってきたので、このへんの詳しい話はまたあらためて書こうと思う。
三大天神のあとふたつは、北区の山田天満宮と、中区の桜天神だ。以前、桜天神のことはこのブログで書いた。菅原道真がどうして天神様として祀られるようになったかといういきさつもそのとき書いたけど、一応おさらいとして簡単に説明しておこう。
平安時代中期、家柄もよく子供の頃から大秀才だった菅原道真は、大人になってトントン拍子に出世して、右大臣にまで上り詰めた。しかしそれをねたんだ左大臣の藤原時平に無実の罪を背負わされ、京都から太宰府に左遷されてしまう。その地で菅原道真は無念の死を遂げ、それ以来京では様々な怪事件が起こるようになく。藤原一族の関係者はことごとく死に、しまいには雷に打たれて死んでしまう人まで出た。こりゃいけないっていうんで、道真の霊を祀るために作られたのが太宰府天満宮であり、北野天満宮だったというわけだ。
それがどうして学問の神様となったかといえば、端的に言って、勉強がすごくよくできた菅原道真にあやかろうということだ。代々、文章博士(もんじょうはかせ)の家系に生まれ、自身も23歳でこの地位について、非常にできが良かった。人格者でもあり、後世でも菅原道真を慕う人は多い。そもそも、いくら恨む気持ちが強かったとはいえ、怨霊扱いされるような人ではなかったのだ。ただ、それゆえ神様扱いされるようになったということもあるから、道真さんはどう思ってるんだろう。現在日本全国に1万2,000もの天満宮があるという。こんなにもたくさんのところで祀られている人間は、菅原道真ただひとりだ。
天神様と呼ばれるのは、落雷で死人が出たことと、元々あった雷信仰とか結びついて、菅原道真は雷の姿になって現れると考えられるようになったからだ。

天満宮には必ずいる牛さん。どうして牛なんだろうと疑問に思った人もけっこういるんじゃないだろうか。これは、菅原道真が丑年生まれだったということと、遺体を運んだのが牛車(ぎっしゃ)で、その牛がどうしても動かなくなったところを道真公の意志として墓所とし、そこに太宰府天満宮が作られた、というエピソードがあるからだ。天神様は白い牛に乗ってやってくるという言い伝えも関係があるのだろう。
もうひとつのシンボルである梅は有名なので知ってる人が多いと思う。道真さんは子供の頃から好きで、最後まで梅のことを愛でていた。京都の庭にあった梅が一夜で太宰府まで飛んでいったという飛梅伝説や、「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだのも有名な話だ。
天神様と聞いて、「天神様の細道」を思い出す人もいるだろう。今はもう、「とおりゃんせ」なんていう遊びは誰もやらないだろうし、知らないだろうけど、私たちが子供頃はまだ残っていた。鬼になったふたりが向かい合って両手をつないで門を作り、その下をみんな一列になって「とおりゃんせ、とおりゃんせ」と歌いながらくぐっていく。みんながくぐり終えるともう一度戻り、そのとき鬼だったふたりは今だっと手を下ろして誰かを捕まえる。捕まった人はわー、捕まったー、と嘆き悲しむ、といったような遊びだったと思うんだけど、細部までの記憶がない。そもそもこれを遊びと言えるのかどうなのか。
童謡の歌詞をどう解釈していいのか疑問に思った人もいたんじゃないかと思う。
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ 御用のない者通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りは恐い 恐いながらも 通りゃんせ通りゃんせ
なんで行きはいいのに帰りは怖いんだろう? 七つのお祝いということは七五三だろうに、それにしてはなんだかおどろおどろしい雰囲気さえある。
いくつかの解釈がある中で、一番納得というかしっくりくるのは、間引きや子捨ての歌だろうという説だ。貧しい一家で子供を食わせていくことができなくなった母親は、7歳になった子供を天神さんに捨てに行く。「七つ前は神の子」という考え方があって、それまでは罰が当たると怖いので育てて、いよいよ成長して食べさせられなくなったので捨てに行くのだ。当時は捨て子が巷に溢れ、誰もどうしようもできなかった。そんな中、天神さんだけは拾って育ててくれるという噂があり、だからそこへ行くのだ。
この歌詞での登場人物は三人。歌詞をそれぞれセリフとして割り当てて見ると分かりやすい。
通りゃんせ 通りゃんせ<母親>
ここはどこの細道じゃ<子供>
天神様の細道じゃ<母親>
ちょっと通してくだしゃんせ<母親・番人に対して>
御用のない者通しゃせぬ<番人>
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります<母親>
行きはよいよい 帰りは恐い<母親の内心>
恐いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ<門番>
捨て子があまりにも多いもんだから、天神様の前では門番が見張っている。ここは通さないと立ちふさがる門番に対して、七五三のお参りに行くと言って通してもらう。行きはその言い訳が通るけど、帰りは子供を連れてないのでどう言い逃れをしたらいいのかと考えると恐ろしい。本当は門番もそのことには気づいていながら通してやる。
もちろん、この解釈が必ずしも合ってるというわけではないけど、「はないちもんめ」や「赤い靴」に通じる怖さがある。
現在の天神様は、決して細道でもないし、怖い門番が立っているわけでもなく、開放的な明るい雰囲気で、境内の中は心地いい。道真さんももう怒ってないだろうし、受験シーズンは殺気立っていることがあっても、季節はずれはいたってのんびりしている。道真さんはわずらわされることなく自分の勉強に集中できているだろうか。
天満宮を訪れるといつも、「菅原道真公は日本を代表する勉強家でした」という言葉を思い出して、そのたびに胸を打たれる。勉強家日本代表になるには、一体どれくらい勉強しなくてはいけないのだろう? 今になってやっと少しずつ勉強をしてる私だけど、勉強家というにはあまりにも遠い。
天満宮は、受験生やその家族のためだけのものでは決してない。大人になってからも折に触れて立ち寄って、道真さんに思いを馳せ、あらためて勉強の誓いを胸に刻むいいきっかけとなる。私もまた、梅の咲く2月に行こうと思う。半年近くあるから、そのときまでにはもっと変わった自分を見せられるようにしたい。それから、道真さん、例の件、よろしく頼みます。