
Canon EOS 10D+PORST Weitwinkel 35mm(f2.8), f8, 1/50s(絞り優先)
今日は源頼朝の物語後編。昨日のようにのんきにちんたら書いてるといつまでたっても終わらないから、急いで要点だけ書いていくことにしたい。とはいえ、せっかく勉強したからにはその成果もお見せしたいところ。詳しく書くべきか、簡単に書くべきか、それが問題だ。などと、余計な前置きを書いてるからますます長くなっていく。いったんCMいく? いいですか? それじゃあ、後編のはじまりはじまり。もしかしたら、続編の予感あり。
オヤジさんの起こした平治の乱でとんだとばっちりを受けた頼朝は、なんとか命だけは助けられ、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に島流しとなる。頼朝14歳の1160年のことだ。
ところでこの場所、伊豆の沖の方にある小島だと思っている人はいないだろうか。私? もちろん思ってましたよ。そしたらなんと、まったく島でも何でもなくて、ただの陸地だった! 島流しで蛭ヶ小島というから、当然海に浮かぶ島だと思うじゃないか。韮山近くにある地名だったとは思わなかった。陸の孤島とでも呼ぶべき場所だったそうだけど、それを知ってなんだか拍子抜けしてしまったというのは私だけではないはずだ。とはいえ、この地で頼朝はなんと20年もの島流し人生を送ることになったのだから、島じゃなくてもつらかったことは間違いないだろう。10年くらいからは人生をあきらめてたんじゃないだろうか。
この地の土豪だった北条時政の娘・政子と結婚したのは1177年だから、頼朝が31歳のときだ。政子は21歳だった。オヤジさんの時政にこの男はやると見込まれ、政子に惚れられて結婚したという形だったようだ。島流しの身分でも結婚できるんだ、などと感心しつつ、話を先に進めたい。
この頃都では、平清盛があっという間に出世街道を駆け上り、平家の天下がおとずれている。有名な「平家に非ずんば人にあらず」というセリフは、この当時の清盛が口にした言葉とされる(と覚えていたのだけど実は違って、清盛のカミさんの弟の平時忠の言葉だと教えてもらった。このもの言いは当時も反感を買ったらしい)。源氏は各地に散らばっておとなしくなってるし、他にライバルもいないからわが世の春をうたっていたのも無理はない。
しかし、3年後、にわかに歴史は動き始めることになる。都で好き放題している平家を見るに見かねて、以仁王(もちひとおう)という後白河天皇の息子が、平家打倒の挙兵をうながす命令書を全国に送ったのだった。この反乱は失敗に終わるものの(以仁王は逃げるところと討たれる)、それまで各地でくすぶっているのにいい加減飽き飽きしていた源氏が一斉に立ち上がることとなる。棟梁の跡取り息子だった頼朝のところにもその知らせはやってきた。迷う頼朝、尻を叩く政子、さあ、どうするんだ、頼朝さんよ。
って、ちょっと待ってください。こんなにゆったりと書いていたんでは、本当にいつまで経っても終わりませんよ。大河ドラマじゃないんだから。下手をすれば10回連載とかになってしまうおそれさえある。もともと歴史ブログならそれでもいいかもしれないけど、ここはそういうところじゃない。日本史が好きな人ばかりじゃないし、しかも取り上げてるのは人気のない頼朝だ。これはまずいことになったぞ。こうなったら、超ハイスピードで4時間の大作映画を3分にまとめてしまおう。できるのか、私? 大丈夫、ダイジェストにすればいいのだ。
その後いろいろありまして(いきなりな省略)、1192年、裏でさんざん世の中を引っかき回していた後白河上皇が死んで、頼朝は征夷大将軍の官位を与えられ、ここに鎌倉幕府が成立したのだった。
おいおい、すごい話が飛んだぞ。義経のとの確執はどうなったんだ? 木曽義仲なんて名前さえ出てきてないではないか。静御前のことや奥州合戦模様は? 平清盛が死んだあとの平家はどうなったんだ? 壇ノ浦の戦いとかの義経の活躍も描かれてないし。などなど、意見や苦情はあるだろうけど、ここはひとつ、大目に見て欲しい。何しろちゃんと書くと長くなってしまうんで。
というわけで、なんだかララァの乗るエルメスのようになってしまった今回の頼朝物語。完成したのは頭の部分だけで、足も胴体もない状態だけど、ララァはかしこいので許してくれるだろう。
もし、機会があれば、「続きを読む」のところでこっそり書いてみたいと思う。ただし、10人以上のお客がいない場合は頼朝ツアーは中止となります。
最後に、頼朝は義経のことをどう思っていたのだろうということについて少しだけ書いてみたい。
初めて出会ったときは、涙ながらにこれまでのことを語り合い、互いの身の上を思い慰め合いながら平家打倒を誓ったふたりだから、最初から憎み合っていたわけではなかった。正室の跡取りと異母弟という意識もそれほど強くはなかったはずだ。ただ、やはり現実の流れの中で、どこかで相容れないものが少しずつ増えていったのだろうとは思う。単に立場の違いだけではなかったんじゃないだろうか。
天才的な武人と秀才政治家では理解し合えない部分もある。性格も、天真爛漫で人に好かれる義経と、厳格で非情なところのある頼朝とではなかなかうまくはいかない。A型のアニキとB型の弟だからだ、なんてネタもあるけど本当かどうかは知らない。頼朝側から見た、嫉妬や恐れもまったくなかったわけではあるまい。義経が次の時代を理解できなかったということもあるだろう。
今となっては、もはやうかがい知ることができないことだ。これからもずっと、日本人は義経を愛し続けるだろうし、頼朝はその敵役から逃れることはできない。ただ、私としては、今回頼朝について勉強したことで、いろいろ理解できるところも、共感できるところも見つけることができて、そのことは嬉しく思っている。少なくとも、業績の偉大さだけでももう少し評価されてもいい。日本で初めて武家が政治権力を持つ制度を作ったのは頼朝だったのだ。それは明治維新が起きる約680年間続くことになる。
最後に、頼朝の死についても少し触れておきたい。一般的な説としては、馬から落ちて死んだということになっている。1198年、53歳のときだった。しかし、当時の頑丈な武士が馬から落ちたくらいで死ぬだろうか。下はアスファルトでもあるまいに。現に、落馬から17日も生きているところからみても、打ち所が悪くて死んだというのではなさそうだ。
それらのことから、後世様々な説が唱えられ、憶測が飛んだ。有力なのとしては、重度の糖尿病だったというのがある。落馬する前から病気が進んでいて、寝込んでいるときに更に悪化して命を落としたというのだ。けど、島流しとそれに続く戦乱の中で糖尿病になんてなるだろうか。その他、毒殺されたのだとか、愛人のところに夜ばいにいく途中不審者に間違われて斬られたとか、あれこれ言われているけど、これもまたもはや分からないことだ。
長い我慢の時を堪え忍び、満を持して立ち上がり悲願の平家打倒を果たした源氏。けれどそれはわずか20年しか続かなかった。将軍になった息子たちは政治から遠ざけられ、裏であやつる妻だった北条政子が実権を握り、そこから政治は北条執権体制に引き継がれることとなる。室町幕府、南北朝時代、応仁の乱を経て戦国時代へ、大きくうねっていったのだった。
頼朝は時代の流れの作った最大の立役者のひとりであることは間違いない。義経をイジメただけのただのイジワルアニキではなかったんだ、そう思ってもらえれば、長々と2日に渡って私が書いてきたのも無駄じゃなかったことになる。お疲れ様でした、読んでいただいた方、そして私。
これにて頼朝物語は、やや唐突な完を迎える。