源頼朝が名古屋人であろうとなかろうと---前編 2006年9月13日(水) - 現身日和 【うつせみびより】

源頼朝が名古屋人であろうとなかろうと---前編 2006年9月13日(水)

頼朝生誕の地は熱田

Canon EOS 10D+PORST Weitwinkel 35mm(f2.8), f5.6, 1/80s(絞り優先)



 源頼朝(みなもとのよりとも)は人気がない。いや、もちろん頼朝が好きな日本人は世の中にはたくさんいるに違いないけど、一般的には義経の敵役としてのイメージがすっかり定着してしまっていて、あまり好かれてないんじゃないかと思う。いい国作ろう鎌倉幕府は覚えやすくて好きという人はたくさんいても。ドラマや小説でも義経の目線で描かれたものが圧倒的に多いから、そうなると必然的に頼朝は悪役となってしまう。
 でも実際はどうだったんだろう? 本当にイジワルないじめっ子にすぎなかったのんだろうか? 考えてみると、日本で初めて武家が政治権力を握ることになった鎌倉幕府を作った偉大な人物にもかかわらず、あまりにも知らなさすぎることに気づく。もしかしたら、本当はいいヤツで、つき合ってみたら意外と気さくで好感が持てたりするんじゃないのか。後の世の評価も低すぎるようにも思える。
 何故突然、頼朝なのかといえば、タッキーのNHK大河「義経」を観て、見直したとかではなく、去年、熱田神宮へ行ったとき、この写真の場所に偶然行き当たってびっくり仰天したからだった。
「右大臣源頼朝生誕の地」
 源頼朝って、名古屋生まれだったの!? ホントに? 名古屋で育った私だけど、そんな話は今まで一度も聞いたことがなかったぞ。でも、調べてみると、満更でたらめでもなさそうなのだ。
 場所は、熱田神宮の北西、国道19号線を挟んだ斜め向かいあたりで、かつて誓願時というお寺があった場所に石碑は建っている。なんでも、頼朝のオヤジさんの義朝(よしとも)の正室が、熱田神宮の大宮司だった藤原季範の娘で、当時の風習として奥さんの実家で子供を産むのがならわしだっから、そうなるとここにあった実家の別宅で産んだに違いない、というのがこの説の根拠のようだ。一般的には京都で産んだとも言われている。
 けど、熱田の実家で産んだというのは確かに充分あり得る話だと思う。その証拠というのでもないけど、弟の義経は兄を慕ってわざわざこの地を訪れ、熱田神宮で元服の儀を行ったという話もある。
 頼朝は三男なのにどうして嫡男となったかといえば、正室の子供だったからだ。義経は側室の異母兄弟だったことも、のちの確執につながっている。
 尾張、三河というのは、この時代にもいろいろと関わりが深くて、頼朝・義経の父親の義朝は、平家との戦いに負けて逃げ延びた先の知多半島の野間で殺されているし、鎌倉幕府の次の室町幕府を作った足利尊氏は三河守護職の息子だったりする。
 頼朝が本当に名古屋人だったかどうかはともかくとして、せっかくの機会なので今日は頼朝について少し勉強してみた。知るほどに好きになれるといいなという期待を抱きつつ。

 生まれたのは平安時代の末期、1147年。幼名は「鬼武者」(あのゲームって、ここから来てるのか?)時代は、源氏と平家が覇権争いをしていた頃だ。
 1156年、保元の乱が起こる。後白河天皇と崇徳上皇の兄弟ゲンカに巻き込まれる形で源氏と平家の争いは激しさを増し、のちの決定的な対立へとつながっていく。振り返って見れば、すべての根源は後白河天皇だったと言えなくもないのだけど、これもまた歴史の必然というものだろう。
 この時の戦いでは、後白河天皇・平清盛の側だった義朝は勝者となる。しかし、そのときの恩賞が足りなかったと義朝は不満を募らせていた3年後、義朝は、後白河上皇の家臣の藤原信頼にそそのかされ、上皇とその息子である二条天皇に食ってかかっていった。これが平治の乱と呼ばれるもので、前回が兄弟ゲンカだったのに対して、これは内部抗争、内輪モメだった。でも、これがいけなかった。
 平清盛のところに上手く逃げ込んだ上皇・天皇によって、平家が官軍となり、源氏は賊軍ととなってしまう。勢いは一気に平家側に傾き、源氏は総崩れとなる。13歳になっていた頼朝も、この戦で初陣を飾ったが、多くの家臣が殺され、棟梁である義朝も落ちのびた知多(野間)で謀殺されてしまう。
 頼朝はといえば、オヤジさんたちと一緒に逃げ延びる途中、馬の上で居眠りしてみんなからはぐれてしまった。寝てる場合か、とも思うけど、ある意味大物の証とも言える。迷子になっているところを捕らえられ、平清盛のところに引っ張っていかれることになる。そこに待っているのは当然、死だ。本人も覚悟しただろうし、もちろん清盛もそのつもりだった。何しろ源氏の棟梁の跡取り息子だ。生かしておいて後々の災いになっては困る。
 しかし、そこが歴史の不思議というかドラマチックなところ。清盛の義母・池禅尼が早くに死んだ我が子と瓜二つだから、どうかこの子を助けてやってくれと強く頼み込むものだから、とうとう清盛は折れて、分かりました、じゃあ島流しということで、ということになったのだった。頼朝は伊豆へ、兄弟の希義(まれよし)は土佐へ、それぞれ流されることになる。
 このとき、義経はまだチビだった。名前もまだ牛若丸の頃だ。常盤御前の子供、今若丸(阿野全成)、乙若丸(卿ノ公義円)とともに寺へ預けられ、大人になったら出家させるという約束で命を助けられることになる。

 と、ここまで書いてきて、まだまだ全然終わりそうにないことに気づいた。こりゃいかん。伊豆に流された先で北条政子と結婚したことや、雌伏の時を経て平家打倒に立ち上がった経緯、弟義経との愛憎劇、鎌倉幕府を作り三代で滅んだことなど、全部端折ってしまうのは無理がある。
 ということで、唐突だけど、今日はこれでおしまいにする。続きはまた明日。初めての二日またぎ。ま、たまにはそんなことがあってもいいか。
 今宵はここまでにいたしとうございます(若尾文子)。
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