肉食サンデーでやっぱり肉を欲しない体を自覚する 2006年9月10日(日)

料理(Cooking)
珍しく肉サンデー

Canon EOS 10D+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/125s(絞り優先)



 今日のサンデー料理は、珍しく肉サンデーとなった。日頃は極端に貧しくて肉が買えないとか、狂牛病を死ぬほど恐れて牛肉を口にできないとか、そういう理由で肉料理をしないわけではなく、ただ単に最近あまり肉を食べたくなくなったから料理に使ってないだけだ。もちろん、ベジタリアンとかではないし、ヒンズー教徒でもない。
 10代、20代の頃の私は肉食動物だった。基本的に魚が嫌いでほとんど食べられなかったから、必然的に肉になったというのもあるんだけど、肉そのものが好きだったということもある。一週間に5日は肉を食べていたような記憶がある。
 そんな私が一時、宗教哲学的な理由で肉を食べられなくなってしまったことがあった。20代の終わりくらいに、思想的混迷期とでもいおうか、食べるという行為自体がひどく罪深いものに思えて、その中でも肉食というのはしてはならないものなんじゃないかと思い込んでしまったのだ。実際、2、3年くらいは肉を食べなかったと思う。
 30を過ぎてからの私はいろんな意味で突き抜けて、それとともに肉も食べられるようになった。食べることも好きになり、食べるということに対する理屈や論理も自分なりに見出して、自らを納得させることに成功した。食べることは生きることなんだから、決して罪なんかではない。でも、命に対する感謝の気持ちをいつも忘れないことが大切だと。ドラマ「ギャルサー」の中で藤木直人も、「ありがとう大地、ありがとう太陽、命よありがとう、いただきます」と言っていた。あの精神だ。
 そんなわけで今日は肉料理とあいなったのだった。え? どんなわけ? いや、気分で。
 ところで、私が作る料理の傾向として、とても食べやすい加工がなされているということに気がついた。言い方を換えれば、アゴに優しすぎる。固い食材をほとんど使わず、使っても調理の段階で柔らかくしてしまうので、出来上がったものはたいてい入れ歯のおじいちゃんでも食べられるような料理ばかりとなっている。自分が柔らかいものの方が好きだというのももちろんあるのだけど、なかば無意識のうちにそうなっている。何を作るか決める段階ですでに固いものを排除してしまってるらしい。このままではアゴ勇のようになれない。なる必要もないけど、アゴにパンチを決められたら一発でのびてしまいかねないのはまずい。食後はキシリトールガムを噛みまくってアゴを鍛えなくてなるまい。辻本茂雄に負けるな(関西人しか知らないか)。
 今日は前置きが長い。そろそろ本題に入ろう。

 ご飯は久々の色物。カレーチャーハンを作った。
 ニンニク、タマネギをみじん切りして、オリーブオイルとバターで炒める。そこに鶏のひき肉、ツナ缶を加えて更に炒める。色が変わったら、ご飯を投入して、あとはカレー・ルーを混ぜ合わせ、カレー粉で味を調えて出来上がり。お好みで卵を入れてもいい。
 普通のチャーハンよりもしっかり味が付いていて、ベーコンなどを使っていない分、しつこくないのがよかった。カレー風味も新鮮で、鶏とツナ缶の組み合わせも悪くない。

 右上は大葉とアスパラ揚げの鶏そぼろ掛け。
 鶏そぼろって、たまにすごく食べたくなって、食べると幸せな美味しさを感じる。駅弁とかの三食弁当も美味しいけど、やっぱり暖かい方がいい。
 味付けはごくシンプルに、しょう油、酒、みりんを1:1:1で混ぜ合わせて、少し砂糖を入れるだけ。あとはそれをひき肉と混ぜて温めるだけで出来上がりだ。簡単で美味しくて、お弁当メニューにしても子供はきっと喜ぶはず。
 アスパラは少し下ゆでして、大葉とともに小麦粉をまぶして、オリーブオイルで焼き揚げする。

 左のやつはなんと呼んだらいいのか分からないけど、牛肉のタルタルというか、韓国のユッケに近いんだろうか。どちらも食べたことはないのでよく知らないのだけど。
 牛肉を粗みじん切りにして、みじん切りにしたタマネギ、と卵黄、パン粉で混ぜ合わせて、あとは焼くだけだ。これはとても簡単で、ちょっと不思議な食感を醸しだす料理なので、ぜひ一度作ってみることをおすすめしたい。私はこれまであまり味わったことのないものだった。
 ソースはいろいろ考えられる。今回は自分が一番好きなタルタルソース風にした。マヨネーズ、カラシしょう油、白ワイン、牛乳、ヨーグルト、黒コショウ、塩、バジルを混ぜて作るいつものやつだ。牛肉とタルタルソースも意外に合う。

 今回は腹にこたえる重さだった。味は申し分なかったけど、今の私にこの肉づくしはちょっときつかったかもしれない。やっぱり昔ほど肉をあまり欲しない体になってきているようだ。それは一種の老化現象として悲しむべきことなんだろうけど、その代わり薄味の料理の美味しさも知ることができたし、魚も食べられるようになったのでよしとしたい。そのときどきで美味しいと感じるものが移り変わっていくことは、それだけたくさんの喜びを体験できることだから、むしろ喜ぶべきことだ。
 今はまったく食べられない漬け物も、あと10年もすれば食べられるようになるかもしれない。でも、キュウリはどうだろう。あれだけはどうにも好きになれない。私の前世は、人間に捕まってキュウリしか与えられずに飢え死にしてしまったカブトムシの可能性がある。小学校のとき、かたくなにキュウリを食べずに居残りを命じられた私は、夕暮れまでついに食べずに先生に打ち勝ったことがあった。マスター、サンドイッチ、キュウリ抜きで! そんな注文をしてる男が喫茶店にいたら、それは私かもしれない。
 でも、キュウリを使った美味しい料理を作ることを考えてもいい。ピーマンも食べられないから、それと一緒に何か美味しいものができないだろうか。店のものや人に出されたものだと嫌いなものは反射的に弾いてしまうけど、自分で意識的に調理すれば克服できるんじゃないか。原形をとどめず、好きな味付けにすれば、どんなものでも食べられなくはないはずだ。せっかく自分で作る機会があるんだから、これを機に苦手を好物に変える試みがなされてもいい。来週以降、そのへんのことも考えていこう。そして、いつの日か、マスターに向かって高らかにこう注文したい。
 マスター、サンドイッチ、キュウリ入りで! と。
 いや、最初からキュウリ入ってますけど、と言われて恥をかいたとしても、あえてそう言える大人の男に私はなりたい。
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コメント
  • 2006/09/16 00:44
    頼朝から「ギャルサー」まで、実に広いw

    でも、生きるために食べる
    だから、感謝する
    には激しく同感です
    だから、残すと激しく罪悪感が・・・・

    バイキングで山盛り残している馬鹿親子を見ると、激しく憎悪・・・

  • バイキングをハイキングと読んで
    2006/09/16 03:57
    ★ただときさん

     こんにちは。
     ドラマネタはちょくちょく入ってるんだけど、もっと古いネタも散りばめてあるんで探してみてくださいね(笑)。
     元がマイナーすぎて誰にも気づけてもらえてない可能性もあり。

     食べることは罪じゃないんだと思えるようになってから、食べることが好きにもなったし、美味しくもなりました。
     自分で料理するようになると、その思いはもっと強まったのでした。肉とか切り分けるとき、やっぱり痛そうだなぁと思ったりしつつ。(^^;

     バイキングで、ってところを最初、ハイキングでって読んで、山登りしてる親が弁当をそんなに残してる姿はあんまり見たことないぞと思ってました(笑)。
     バイキングでしたか。(^^;
     いますねー。
     私は基本的に少食なんで、ああいう食べ放題系は店のいいカモとなってしまいます。(>_<)
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