
Canon EOS 10D+Super Takumar 135mm(f3.5), f4.5, 1/250s(絞り優先)
夏の散策を怠けたので、丸っと8月分の湿地の花が飛んでしまった。せめてサギソウだけでも残ってないだろうかという淡い期待を抱いて森林公園の湿地へ行ってみると、すでにシラタマホシクサが広がっていて、わっとなった。完全なる遅刻。2時間目くらいのつもりが行ってみたら4時間目の終わりだったみたいな。弁当食って帰るかな。
サギソウなんて影も形もない。それはそうだろう、シラタマホシクサがこんなに咲いているんだから。私は自然の歩みの早さと確実さを侮りすぎていた。野草相手に遅刻の言い訳はきかない。家を出たところでおばあちゃんが溝にはまっていたんで助けてたら遅れちゃいました、へへ、などと誤魔化そうとしても、終わったものは終わっている。顔洗って来年出直してこいと言われて終わりだ。
ところで、シラタマホシクサはどの程度知られた野草なんだろう? 名古屋に住んでてあちこちの湿地へよく行く私は割と見かけることが多いので当たり前にあるものと思っていたら、東海地方にしかない花なんだそうだ。大げさに言うと、地球上で自生しているのは、愛知、岐阜、三重、静岡の砂礫層からなる湿地帯だけだという。いわゆる東海丘陵要素植物と呼ばれるもののひとつで、伊勢湾を取り囲む地域ということで「周伊勢湾要素植物」と言われたりもする。シデコブシ、ミカワバイケイソウ、ヒトツバタゴなどがそれに当たる。
ということなので、シラタマホシクサを知っている日本人というのは圧倒的少数ということになるのだろう。ましてや見たことがある人となると、日本人の1パーセントとかなのかもしれない。普通の人が用もなく湿地帯になど行かないだろうし。野草に興味がある人なら常識かもしれないけど。
有名な群生地としては、愛知県豊橋市の葦毛湿原がある。シラタマホシクサはここの一番の名物で、全国からこれだけを見に訪れる人もいるそうだ。
私の知ってるところでは、豊田市藤岡の昭和の森とその周辺、瀬戸の海上の森あたりに自生している。大森の八竜湿地や尾張旭の吉賀池湿地などは公開日が限定されるのが残念なところだ。
自生ではないけど確実に見られるところとしては、尾張旭の森林公園と東山植物園がある。ただし、どちらも有料。
花の咲く時期は、8月の終わりから9月の終わりにかけて。高さ30センチほどの茎の先端に、直径7、8ミリの白い小さな花をつける。花は少しずつふくらんでいき、一斉に咲き揃ったときの白い星を散りばめたような光景は人の心をふわっとさせ、おばさまは少女に返り、おじさんをニューハーフっぽくさせてしまうくらいの力がある(このたとえは正確なのか?)。
名前の由来は、見た目そのまま、白玉星草。別名にはミズタマソウやコンペイトウグサなどというものもある。白い砂糖菓子みたいなので、飢えが限界のときをこの花を見たら、反射的に引きちぎって食ってしまいそうなので気をつけたい。
雄花と雌花があるそうだけど、ちょっとそこまでは分からない。かすかにするという甘い香りもまだかいだことがない。
冬場近くまで花は残るものの、周囲の草が青々としてる晩夏から初秋にかけてがシラタマホシクサの見頃だ。秋が深まると草が枯れて見栄えが寂しくなる。
育てるのが非常に難しい一年草なので、見たければ東海地方に自ら足を運ぶしかない。レッドデータブックで絶滅危惧種に指定されているし、葦毛湿原のものも年々数を減らしているという。100年後の絶滅確率は98%というから、もしかしたら私たちが生きている間にも幻の花となってしまうかもしれない。来年と言わず、今年のうちにぜひ。

サワシロギク(沢白菊)は同じ酸性の湿地に生える野草の中でも、ポピュラーなものだ。北海道から九州までの湿地帯に広く自生している。これも在来種だ。
沢のように湿ったところに咲く白い菊ということでこの名前になった。やや投げやりな感じ。姿も地味で、存在自体あまりありがたがられることもなく、湿地の隅っこの方でひっそり咲いている。必要以上に自分をアピールしない。そこが好きだという人もいるだろう。
草丈は50センチくらいで、枝分かれした先に直径3センチくらいの白い花をつける。中央の黄色い部分が頭花で、頭花の中心部に両性の筒状花があり、周囲に雌性の舌状花が一列に並んでいる。
いたって地味なサワシロギクだけど、ひとつこの花には大きな特徴がある。それは、秋の深まりと共に白い部分が薄紅色から赤色に色づいていくところだ。一学期は目立たなかった女の子が夏休み明けの二学期、冬休み明けの三学期とだんだん色気づいていく様に似てなくてもない。
もし、名前がウスベニサワギク(薄紅沢菊)だったら、この花の運命は今とは少し違っていただろうか。
夏の終わりは名残惜しくて、もう少し、もう少しと引き留めたい気持ちになるけど、季節は決して待ってはくれない。森も山も湿地も、空も雲も風も、花も鳥も虫も、変わるべきときを知り、去るべきときを心得ている。人の感傷などは知ったこっちゃないのだ。自然の中を歩けば、嫌でもそれを思い知らされる。
私たちもまた、残酷な時の流れの中で生を刻んでいる。今年の夏は、もう二度とない夏で、来年の夏に辿り着ける保証はどこにもない。だから、ひとつひとつの季節に精一杯の思いを込めなくてはいけないのだと思う。
すべては一期一会。人も、花も、生き物も、季節も。
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