
SONY α55 + SIGMA 50mm f2.8 DG MACRO
「デジタルカメラマガジン 7月号」の組写真フォトコンで入選。
組写真で入ったのは本当に久しぶりのことだ。モノクロ写真が選ばれたのは初めてになる。
選者がアサヒカメラnetの「写真の殿堂」も担当している小林紀晴さんというのも、個人的には意味のあることだった。
去年、中井精也さんに「駆ける園児」を準優秀に選んでもらったときは、深夜に一人で大喜びした。今回は静かに喜びを味わった。
同日発表の「写真の殿堂」は、今月もかすりもせず。
やっぱりまだまだだなと思っていたら、「月刊アサヒカメラ」のモノクロプリント部門で、初めて次点になった。今年から応募を始めて、たぶん3回目くらいのものだと思う。
アサヒカメラの月例は、フィルム時代からやっている強者揃いで、デジタルカメラマガジンの常連さんでも一次予選、二次予選止まりだったりするから、相当頑張らないと予選通過もままらないと思っていた。次点というのは自分でもかなり驚いた。
上がったり下がったりと、忙しい一日だった。
琵琶湖はこれで験がいい場所になったので、また撮りにいきたいと思う。小さな池でもなく、海でもなく、琵琶湖でしか撮れない水風景というのがある。奥行きがあって、波がないのが琵琶湖の風景だ。さんざん撮られ尽くされている被写体ではあるけど、多くの可能性がある場所に違いない。
ここ最近、「写真の殿堂」の故大山高さんの講評を読み直している。
選者を担当してわずか1年で亡くなってしまったのが、本当に惜しまれる。「写真道場にする」という強い意気込みに違わず、毎月、暖かくも厳しい選評を行っていた。応募作だけでなく個人のブログまで見て、その中の写真に言及することもしばしばで、入選しなかった作品にも多くのアドバイスを送っていた。
「写真は、自己表現にこだわると広がりを失います。限定した意味しか伝えられなくなるからです。そうした写真は、見る側にしてみればつまらない写真として映ります。趣味としてお気軽にカメラを楽しむ限りでは、もちろんそれでかまいません。しかし、そのままでは、自己満足的な写真の領域を越えることは出来ないのです」
「写真で表現をするには、思い入れや見たままをそのまま持ち帰るのではなく、もうひとつ、作者の変換能力が必要になるのです。その結果、見る者に作用し、心の中にさざ波が広がるような感覚を促した時、人は「感動」という言葉を使うのではないでしょうか」
「<自己表現=ひとりよがり>に見えないように注意を促しました。今回は、そこに「説明写真」や「証拠写真」で終わらないように注意してください、と付け加えます。4枚組の場合は、テーマの意味をなぞるような絵柄の組み合わせにならないように特に気をつけてください。写真で想いを伝える方法は、事柄を説明しようとすることと真逆にあります。想いを押し付けてはいけません。説明しようとし始めた途端、あなたの想いは受け手から遠ざかってしまうことでしょう。
「写真の殿堂」はひとつの“写真道場”です。表現として未消化な、日常の報告を写真で丸投げすることには、ぜひご注意いただきたいと思います」
「写真にとって作画力は大切です。腕前が上達してくると、その作画力を生かして、それなりにまとめることが出来るようになります。しかし、卒のない作品と見えてしまうのは惜しいところです。ぜひ胆力を養ってください」
「単なる「写っている写真」と「作品」と呼べるものとは全く違う次元にあります」
大山高さんは、なんとも困難な宿題を残して、去ってしまった。
去年までの自分なら、何のことを言ってるのか、よく分からなかったかもしれない。今は、そんな難しいこと言われても困ると言えるくらいには成長したかもしれない。
これらの言葉を飲み込んで、消化できるようになるだろうか。残された時間は、半年ちょっと。
今年いっぱいで、写真には一区切りつけようと思っている。やめるか続けるかは、そのときになってみないと分からない。とりあえずあと半年、真摯に写真に取り組みたい。