
SONY α55 + MINOLTA 50mm f1.4
木曽川町は、山内一豊を生んだ町として知られている。
しかし、一豊の生まれは岩倉という説もあり、もしそれが本当なら、木曽川町は大事な自慢を失ってしまうことになる。木曽川町としては譲れないところだろう。
のちに土佐藩初代藩主となる山内一豊が、愛知の片隅で生まれたことを知っている高知県民はどれくらいいるのだろう。
江戸時代を通じ、土佐藩では山内氏ゆかりの上士と、もともと土佐を納めていた長宗我部氏につながる下士と、明確な身分差があり、互いに相容れない対立関係にあった。武市半平太や坂本龍馬は下士で、後藤象二郎や板垣退助などが上士だった。
どうしてそういうことになったかといえば、関ヶ原で西軍についた長宗我部が領地を没収されて、代わりに入ったのが山内一豊だったことが始まりだった。土佐の人たちは長宗我部を慕う気持ちが強くて、一豊はずいぶん苦労させられることになる。それでやむにやまれず、武力で弾圧をして、ようやく土佐を治めることができたものの、その結果として生まれたのが上士と下士という身分制度だった。下士は一生下士のまま決して上士になることはなかった。相当ひどい扱いを受けたという。
坂本龍馬が比較的自由だったのは、実家が商売で成功した大金持ちで、上士たちにたんまり金を貸していたから、上士たちは坂本家の坊ちゃんに強く出られなかったというのがある。
そんな土佐の歴史が、こんなところから始まっていると思うと、なかなか感慨深いものがある。
山内家は、一豊の父が守護代・岩倉織田氏の重臣で、傍流の織田信長との争いに負けて一族は離散してしまう。
のちに秀吉との縁もあって一豊は信長の家臣となるのだけど、特別武勇に優れていたわけでもないのに立身出世を果たしたのは、『功名が辻』が描かれたように妻・千代の内助の功によるところが大きいとされている。
現在、黒田小学校の一角に、黒田城跡の石碑が建っている。天守があるような立派な城ではなかったようだけど、遺構は何も残っていないようだ。
黒田城の歴史はちょっとややこしいので、ここでは省略する。鎌倉街道沿いにあって、木曽川も近いということで、戦略上それなりに重要な城だったようだ。

正岡子規の碑があった。
子規は木曽川町を訪れたことがあって、茶店で休んでいるときに松本わくという女の人に一目惚れしたとかで、この場所に碑が建てられたんだとか。
子規といえば『坂の上の雲』で、ここでも司馬遼太郎とつながった。

旧街道の趣が残る通り。これが鎌倉街道だろうか。


木曽川町の銀座通。



名鉄の新木曽川駅。




つづく。