美濃赤坂宿

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
美濃赤坂-1

PENTAX K-7 + FA 50mm f1.4



 過去ネタの在庫がまだ少し残っている。ひまわりを撮りにいったときの大垣もその一つで、美濃赤坂編を放置したまま、時が流れてしまった。もう遠い過去に思える夏の旅だ。
 この日はレンタサイクルでの散策だった。養老鉄道の東赤坂駅をあとにして、東海道本線の美濃赤坂駅を目指す途中、趣のある通りに出た。
 このときは、これがどんな道なのか、よく知らなかった。中山道の赤坂宿があったところだと知ったのは、帰ってきてからだった。
 赤坂宿というと、東海道五十三次で、豊川に同じ名前の宿場があった。大垣にあるのは中山道の赤坂宿で、区別するために美濃赤坂宿と呼ばれていた。
 江戸から数えて56番目の宿場で、本陣1、脇本陣1、旅籠17軒と、それほど大きな宿場町ではなかった。
 この土地はそれ以前から石灰や大理石が産出するところで、古くから町が形成されていた。その頃は、東北に青墓宿があった。
 その後、赤坂宿は杭瀬川の川港として発展していくことになる。
 皇女和宮が江戸に下る途中、ここ美濃赤坂宿で泊まることになり、宿場中は大慌てになったという逸話が残っている。 
 現在も、旧街道の名残をとどめていて、なかなか風情のある通りだった。自転車でさらっと通ってしまうのは惜しいくらいだった。


美濃赤坂-2

 かつて赤坂港があった場所に、なにやら歴史のありそうな洋館が建っていた。赤坂港会館という名前以外、このときは分からなかった。
 明治時代に、岐阜県の警察屯所として建てられたもので、この地に移築して保存しているそうだ。
 中は見学できそうにない感じだった。


美濃赤坂-3

 旧赤坂港も復元されたもので、往事の姿からは遠そうだった。
 杭瀬川はここから200メートルほど西を流れていて、揖斐川の本流だったのだとか。
 室町時代の大洪水で水路が大きく変わって、幅の狭い支流になってしまったらしい。
 それでも川港としては栄え、大正時代まで港が使われていたそうだ。


美濃赤坂-4

 赤坂本町駅跡の碑が建てられている。
 ホームの一部も残っている。
 昭和5年に開業した駅で、旅客専用駅だった。
 もともとこの線は、石炭などを運ぶ貨物用として敷かれたもので、のちに旅客の方がメインになっていった。
 国鉄初のガソリンカー(気動車)が走ったのが、この線だった。


美濃赤坂-5

 駅はなくなっても、石炭などを運ぶ貨物列車は走っているようだ。線路が錆びていない。


美濃赤坂-6

 貨物列車用と思われる踏み切りが見えている。


美濃赤坂-7

 町屋造の家屋がけっこう残っている。


美濃赤坂-8

 美濃赤坂駅の北の通り。


美濃赤坂-9

 美濃赤坂駅から北西に延びている線路は、もう使われていないようだ。


美濃赤坂-10

 ひまわり畑へ行く前に、美濃国分寺跡まで足を伸ばした。
 だだっ広い土地がそっくり残されている。奈良の平城京跡を思わせる。
 741年、聖武天皇の勅命で建てられた国分寺の一つで、 東西230メートル、南北250メートルの寺域を持ち、壮麗な伽藍が建ち並ぶ寺院だったという。
 背後には青野山があり、青野原と呼ばれる景勝地に美濃国分寺はあった。
 しかし、鎌倉時代にはすでに荒廃していたと伝わっている。
 現在の美濃国分寺は、江戸時代初期の1615年に再興されたものだ。
 美濃国分尼寺は、ここから西南1キロほどの場所にあったらしい。

 ようやく大垣編が終わってホッとしたけど、まだ夏のネタが少し残っているのだった。
記事タイトルとURLをコピーする
コメント
コメント投稿

トラックバック