
SONY α55 + TAMRON 10-24mm f3.5-4.5 / 300mm f4.5-5.6 APO
船員たちは勢いよくマストの上に登り、それぞれの位置につく。
舳先のリーダーが「ごーきげんよう~」と合図を送ると、それに答えて、全員帽子を脱いで手に持ち、大きく手を振りながら「ごーき~げ~ん~よ~う~」と声をそろえる。
岸壁のこちらからは拍手が起こり、人々は一斉に手を振り返す。
「さよーならー」
日の丸の国旗を手にした園児たちも、力一杯旗を振って、「ごーきげんよー」と声をかける。
船はゆっくり岸壁から離れていく。
船員に知り合いがいるわけでもなく、船に特別な思い入れがあるわけでもないのに、わけもなく胸にじーんと来るシーンだった。長い航海に出る身内を見送るみたいな切ない気持ちになった。
スピーカーからは割れた音で「蛍の光」が流れている。
初めて見る登檣礼(とうしょうれい)の場面だった。

今月の4日、訓練航海中の日本丸と海王丸が名古屋港に寄港した。同時寄港は4年ぶりだそうだ。
5日は帆を張るセイルドリルが披露され、6日は内部の一般公開が行われた。
私が出向いたのは8日の出港の日だった。撮るならこの日しかないと思っていた。
日本丸は、横浜のみなとみらいに係留されている初代を見たことがある。2世を見るのは初めのことだ。
世界最大級の帆船ということで、近くから見るとその大きさに圧倒される。
船のファンもたくさんいるようで、この日もたいへん賑わっていた。土日は数万人の見物客が集まったそうだ。
こんなに大きなイベントとは知らず、自転車でふらっと行って着いてみたらびっくりだった。

太平洋の白鳥、海の貴婦人と呼ばれる日本丸と海王丸は双子船で、ほとんど同じなので船名を読まないと区別はつかない。
初代が建造されたのは、どちらも1930年(昭和5年)のことだ。
訓練航海用の船として活躍していたが、太平洋戦争のときは帆が外され、船体は灰色に塗られて石炭の貨物船として使われた。戦争が終わると復員船として大勢の日本人を国外から日本へと運んできた。
戦後、再び船体は白く塗り直され、帆も取り付けられて、訓練船として活躍し、1984年(昭和59年)に引退となった。
日本丸は横浜で永久係留となり、海王丸は富山県の富山新港で余生を送っている。
現在の2世は、訓練生を乗せて、国中を航海している。このときは高校生がそれぞれ100人ほど乗り組んでいた。商船などの船乗りを目指す学生たちだそうだ。

登しょう礼とは、帆船が立ち寄った港を出立する際に行う最高の別れの挨拶で、船員たちはマストに登り、見送りの人たちに「ごきげんよう」と合唱する。
もともとは敵意はないことを港の人に示すための行為だったという。
現在行っているのは日本丸、海王丸と、大阪市所有のあこがれだけのようだ。

ごきげんようという挨拶や、振られる日の丸の国旗、日本丸。古き良き日本の姿を思い出させてもらった。
感動したのは、単に船の別れだったからではない。

園児たちの記念撮影に便乗させてもらった。

名古屋港を去っていく日本丸。

じっと見つめていたおやじさん。
年配の人には、私などには分からない特別な思いがあったのだろう。

あまり高さに余裕のない名港トリトンの下をくぐっていった。

日本丸の出港を見送ったのが10時半。海王丸の出港は14時だったので、その間、待つには長すぎた。
イタリア村の跡を撮ったり、稲生公園、荒子川公園などを巡って再び名古屋港に戻ったのが13時半だった。
一度ばらけた人たちがまた集まりだしていた。
午後になって雲が少なくなり、青空が広がった。
太陽は真逆光。

実習生たちが登しょう礼のために登っていく。

このとき位置についたのも、旗を持つ園児たちの後ろだった。もちろん、偶然ではない。

この園児たちも元気いっぱいで、ごきげんよう合戦を楽しませてもらった。
二度見てもやっぱりいいものだった。

名残惜しそうに眺める人たち。
こうして海王丸も去っていった。
埠頭を渡る風は少し冷たかった。
ごきげんよう。また来年。
次はきっとどちらか一隻だろうけど、また見に来ようと思った。