
SONY α55 + MINOLTA 50mm f1.4
先月、初の試みとして、明治村は早朝営業というのを2日間行った。6時半から8時半までの2時間限定で営業するというものだった。
必ず行こうと決めていたのに、初日は雨、翌週は体調不良で、残念ながら行くことができなかった。朝の光の中の明治村を、ぜひ撮ってみたかった。
すっかり行くつもりでいたので、やはり行かずにいられなかった。気を取り直して、先週行って撮ってきた。
そろそろ10回目くらいになるだろうか。最初は建物の外観を撮ることしか思いつかなかったのが、建物の内部、人がいる風景、季節やイベントものとなり、明治村で撮る写真も少しずつ変わっていった。
そして今回、初めて明治村の「時」といったものが撮れたように思う。
明治村にある建物はすべて明治から昭和にかけて実際に使われていたもので、使われなくなったものを移築、展示している。
一度止まった時の刻みが明治村で再び動き出しているかといえばそうではなく、時を止めたままそこにある。止まった時計の針が動かないように。
その感じというのはやや特殊なもので、死んでもいないけど生きてもいないというか、現実の時間の中にありながら連動して動いていない。人が暮らしていない家に体温がないように、いくら大勢の見学者が出入りしても、建物の中に命は宿っていない。
その独特な空気感を、今回初めて、少しだけ捉えられたような気がする。光と影の光景の中に、ふっと記憶の残像が浮かび上がる。吹き来る風に乗って、かすかな残響が届いた。
写真の中には、時を止める最後の瞬間が凍り付いて写っている。時が再び動き出すことはない。おそらく、永久に。

鳴らないソ。

カーテンから差し込む光はあのときと同じでも、机は主を失ったまま。

病室のベッドは暗く、窓の外は光に溢れている。
明るい日差しは、病人にとって残酷なものでもある。

廊下の記憶。

秋の風が、レースのカーテンを静かに揺らした。
無人の部屋を、風が吹き抜けていく。
そうやって、もう、いくつの季節が通り過ぎただろう。

床に映る光は、季節の色を持っている。

窓際で、歓声を上げながら外を駆け回る子供たちを見ていると、自分は建物にすみついた亡霊のような気分になる。

明治村の中でも、たえず小さな変化は起きている。それまで何かに使われていた建物が使われなくなることもある。そうすると、いっそう、ひっそりした感じになる。

それは客を待つ閉店間際のような、空白の時と場所。

遠い、とおい、時間。

その列車は、いつも出番を待っていた。何度走っただろう。その日が来るのをただ待っていた明治の御料車。

写真はいったい誰のためにあるのだろう。
100年後、自分が写った写真に価値はあるだろうか。
つづく。