
PENTAX K-7 + TAMRON 10-24mm f3.5-4.5
現在、大垣城は街中に埋もれるようにして復元天守が建っている。江戸時代には広大な城郭を備えた城で、第二次大戦の空襲で燃えるまでは国宝に指定されていたというのも、信じられないくらいになっている。
関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍の本隊10万が大垣城に入り、ここを本拠に戦うつもりでいた。
それもこれも今は昔の話となり、大垣城の存在感はめっきり薄いものとなってしまった。
もし、関ヶ原の戦いが大垣で行われていたならば、当然呼び名は大垣の戦いとなっていた。勝負自体は東軍の勝ちで動かなかったとしても、大垣の歴史は大きく変わっていたに違いない。
関ヶ原の戦いのあと、東軍に囲まれながら守備隊だけで3日間持ちこたえたものの、最終的には落城して、大部分の建物は焼失することになった。城下も火の海となり、3日間燃え続けたという。

大垣城の元となったのは、1500年に竹腰尚綱が牛屋に築いた砦とされている。
摂津重直が大垣6万石の城主となり、1544年に織田信秀(信長の父)が攻め取った。
1560年に、氏家直元が城主となったとき、堀などを築き、城としての体裁を整えたようだ。
1583年、秀吉家臣の池田恒興が入る。
1596年、伊藤祐盛が城主のときに初めて天守閣が築かれたとされている。
関ヶ原のあと、1613年に石川忠親が堀を整備し、松平忠良が天守の改修を行った。
1649年に戸田氏鉄が改築をして、そのまま明治を迎えた。公園で馬に乗っている像は、戸田氏鉄のものだ。
明治に廃城令が出されたものの、天守などの一部は残された。昭和に入って国宝に指定されたものの、空襲で焼けてしまう。
戦後、昭和34年に鉄筋コンクリートで天守が復元された。
昭和60年には、戸田氏鉄入城350年記念として、良櫓、西門、高塀などが復元されて、現在に至っている。

復元天守の中は、資料館になっている。入城料は100円だった。
あとから時間があったら夕方の街並みを眺めるために登ろうと思っていたのだけど、結局時間がなくて入らずじまいだった。

水都まつりの前に、大垣の街を散策することにした。
とりあえず少しだけ北を目指してみた。
本町通り沿いに貴船神社があった。
戸田氏鉄が摂津国尼崎藩の藩主だったとき、京都の貴船神社から分祀してもらって建てたのが始まりとされている。
戸田氏鉄が大垣に入ったとき、一緒に移されてきた。

少し北へいったところにあった稲荷神社。村社とあるから、昔からこのあたりの守り神だったのだろう。
この日は神社巡りが目的ではなかったので、表から見ただけだった。

本願寺大谷派大垣別院。
立派な本堂は新しい。明治24年には濃尾地震で倒壊し、昭和20年の空襲ではここも全焼している。
現在の本堂は昭和47年に再建されたものだ。
ここで引き返して、次は南へ向かった。

どこにあったのだかすっかり忘れてしまった、大垣大神宮。
城内の公園にあったのかもしれない。

天守南の公園内に建つ濃飛護国神社。
明治4年に創建された。

大垣公園を出て、水門川沿いを歩く。
大垣城の外堀だったもので、江戸から明治にかけて水運利用され、大いに賑わったという。最盛期は川面を埋め尽くすくらいの舟が出たそうだ。
昭和に入ってかなり汚れたようだけど、現在はだいぶきれいな姿に戻った。

川を見守る石仏。

しばらく歩くと、クランク状に折れ曲がっているとこに出た。ボートを漕いでいる人たちがいて驚く。
ここは四季の広場と名付けられた場所で、市民が水遊びをするところらしい。

石碑があったので、ここが「おくのほそ道」の結びの地かと思ったら、違った。これは記念碑だった。結びの地はまだ少し先だ。
芭蕉の句碑が川沿いに並んでいる。

かつて川湊だったところに、住吉燈台が建っている。
1700年前後に作られたもののようだ。
高さは約8メートル。夜間に川を行く舟の目印になるようにと、菜種油を燃やして灯りとしていたらしい。
舟も浮いていたから、イベントなどで使われるのかもしれない。

ここが「おくのほそ道」結びの地とされるところだ。
芭蕉翁とそれを見送る木因像が建っている。
「蛤のふたみに別行秋そ」(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)。
「おくのほそ道」の旅はここで終わりとし、芭蕉は舟に乗って桑名へと向かった。そのあと、故郷の伊賀に戻り、京都でしばらく過ごしたと伝わっている。
私の大垣の旅はここで終わりではなく、更に南下して養老鉄道を撮りに行ったのだけど、それはまた別の話。
市街レトロ散策編もあって、いずれ近いうちに紹介できると思う。