
PENTAX K-7 + TAMRON 10-24mm f3.5-4.5 / DA 55-300mm f4-5.8
全国的な関心は低いだろうけど、現在、名古屋城では本丸御殿の復元工事が行われている。
天守閣と共に国宝に指定されていた本丸御殿は、昭和20年の空襲で焼け落ちてしまった。
戦後、天守閣は再建されたものの、本丸御殿は長く手つかずのままった。
再建が始まったのが2009年のことだった。総工費150億円、9年かけて本格的な復元を目指している。天守はコンクリート製で妥協してしまったので、本丸御殿は木造にこだわった。
戦前まで現存していた本丸御殿は、近世の正当な書院造で、内部には狩野派による2000点以上の障壁画で飾られていた。それらの障壁画のうち、1000点以上は疎開などで難を逃れて、現存している。再建がなったのちは、それらもあわせて公開されることになるはずだ。
このたび、表書院の骨組みが完成し、上棟式(じょうとうしき)が執り行われることになった。12日(火曜日)に出向いて見学してきた。
棟木(むなぎ)を運び入れたのは、平針の木遣(きや)り音頭保存会のみなさんだった。
長さ6メートルの棟木に紅白の飾りを巻き、木遣(きや)り音頭を歌いながら表門から本丸御殿の工事現場まで担ぎ入れた。
400年前、加藤清正が指揮を執って、同じようなことをやっていたかと思うと、なかなかに感慨深い。本丸御殿完成のおりには、家康も訪れ宿泊していった。

この日のおもてなし武将隊は、普段着姿の前田利家と、足軽だった。
平日の午前中にもかかわらず、見物人は600人を超えていたそうだ。
名古屋の人間は、本丸御殿にはけっこう思いを持っていて、寄付をした人も多いはずだ。工費の3分の1くらいは寄付によるものだという。

この紅白のが棟木だ。
もっと巨大な柱のようなものを想像していたら、意外ときゃしゃな木だった。諏訪大社の御柱みたいなものではなかった。

天守閣と平針木遣り音頭保存会の人たち。
いい調子で音頭をとっていた。
このあと北側の不明門をくぐって、本丸城内へ入っていった。

天守閣と本丸御殿の位置関係はこうだ。左手に見えているのが本丸御殿で、全体を覆われている。
普段も工事の様子を見学することができるのだけど、この日は特別に更に近くから見ることができた。それが午後からだったので、私は見ることができなかったのが少し心残りだった。

式典が始まり、城内でも音頭による運び入れが行われた。
関係者と招待客のみ中に入ることができて、一般は外からの見学だった。

河村市長挨拶。
さすがに話が上手い。話し慣れているというのもあって、面白い。
名古屋城の歴史や名古屋のことなどとひとしきり話し、場の笑いを誘っていた。
天守も木造で建て直すと大風呂敷を広げているけど、きっとそれは無理だ。

表書院の最上部に棟木を引き上げる際に、曳綱(ひきづな)という儀式が行われた。
紅白の綱を参加者達が引き、河村市長たちが白扇を振って、エイ、エイ、エーイとかけ声をかける。

そのあと、木槌で棟木を打ち付ける槌打(つちうち)の儀式へと移った。

屋根の高いところまで登って、槌打が行われた。

ここまでが上棟式の一通りの流れで、無事に安全祈願は終わった。

式のあと。
中をのぞき見たところ、表書院の骨組みが完成しているのは分かった。ただ、2年半でまだこれだけなのかとも思った。
こりゃあ、あと7年くらいは確かにかかる。それまで元気に生きていられるといいけど。
とりあえず再来年の2013年には、玄関と表書院が先行一般公開される予定になっている。
天下普請だった当時、天守閣は2年、本丸御殿を3年で完成させている。

神社の祭事ほど重々しいものではなかったものの、古式ゆかしい形式の上棟式を見ることができたのはよかった。こういうものを見る機会というのも、生きている間にそう何回もあるわけではない。本丸御殿の完成を見ることができたなら、きっと感慨もひとしおだろう。
理屈抜きに長生きすることが大切だ。
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