
PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4
愛知県西尾市といえば、西尾城の城下町として栄えた歴史を持ち、三河の小京都を自認する街だ。自慢はなんといっても抹茶の生産量日本一というのが挙げられる。抹茶といえば京都を連想する人が多いだろうけど、生産量では西尾なんだそうだ。西尾の全国的な知名度はどれくらいなんだろう。
私が西尾を訪ねたのは、このときが初めてだった。西尾劇場を見たいと思ったのが第一で、町並み散策もしようと考えていた。
今回は西尾の歴史編ということでお届けしたいと思う。まずはやはり、西尾城跡に行ってみないことには始まらない。現在は、城跡の一部を歴史公園として整備して一般開放している。

明治の廃藩置県で、天守などほぼすべての建物は取り壊され、現在までに古いものは何も残っていない。建っているのは再建されたものだ。
上の写真は、鍮石門(ちゅうじゃくもん)と呼ばれた門を再現したもので、城主がいた二の丸御殿の表門だった。扉に真鍮が使われていたことからそう名付けられたんだとか。
高さ7メートル、間口9メートルの立派な門で、再現度はなかなか高いのではないかと思われる。平成8年に建てられたものとは思えない。

本丸跡。
この城は、本丸ではなく二の丸に三層4階の天守が建っていたそうだ。その前は本丸の隅に天守があったようだけど、改築のときにどういう理由からか、二の丸に天守を移したらしい。
城下は士農工商の家が混在して建ち、城下町の周囲を堀と土塁でぐるりと囲む総構え(そうがまえ)だったとも伝わっている。普通そういうことはまずないことで、この城はちょっと変わったところがある。

現在の西尾城跡の象徴的存在である本丸丑寅櫓が再建されたのも平成8年のことだ。
高さ10メートルの木造建築で、かなり本格的な造りになっている。
西尾城の歴史は13世紀までさかのぼることができる。1221年の承久の乱で活躍を認められた足利義氏が、三河国守護に任じられてこの地にやって来たことに始まる。
西尾に西条城(のちの西尾城)を、今の吉良町に東条城を築き、それぞれを長男と三男に与えた。
足利氏は吉良氏と名を変え、吉良荘を治めるようになる。
やがて時代は南北朝から応仁の乱、そして戦国時代へ。東西の吉良氏が内輪もめしている間に力を失い、今川勢に取って代わられてしまう。
今川なきあとは徳川のものとなり、家康配下の酒井正親が城主となり、名を西尾城と改めた。
近世城郭としての体裁が整ったのは、1585年のことだった。本能寺の変(1582年)ののち、いよいよ天下取りを密かに狙い始めた家康は、三河の各城に対して大がかりな改修を命じたのだった。
しかし、その動きを察知した秀吉により、家康は関東へ移封となってしまう。1590年のことだ。
そのとき城主だった酒井重忠も家康に従って関東へ移っていき、岡崎城主だった田中吉政が西尾城の城主を兼ねることとなった。その時代に城郭は完成したとされる。
江戸時代になると、本多康俊など、城主が次々に変わり、大給松平氏のときに明治を迎えることとなる。
最盛期は天守や御殿の他に多くの櫓を持つ6万石の城だった。

本丸丑寅櫓は無料開放されているので、登ってみた。
特に何か面白いものが見えるわけではない。
城郭があったところには小学校などが建っている。

野面積みの石垣や土塁、堀などの一部が現存している。
適度な残り具合と再建で、お城好きなら楽しめる場所となっている。

城跡には神社が建っている。
一応、挨拶だけでもしていくことにした。

西尾神社。
どんな神社か知らないままお参りだけしておく。

奥へ進むと本殿があり、なにやら古めかしい。
家に戻ってから調べたところ、太平洋戦争の戦没者を祀るため昭和27年に創建された神社だそうだ。
檜皮葺屋根で、歴史のあるところかと思わせる。

御剱八幡宮。
城内鎮護のために建てられた神社で、こちらは古い。
八幡宮ということで、祭神は応神天皇だ。
現存する社殿は、1678年、当時の城主・土井利長によって再建されたものだそうだ。
拝殿の前には、陶製の狛犬が置かれている。

公園の一角には、京都から移築された旧近衛邸がある。
喫茶室になっていて、ここで抹茶をいただくことができる。

こちらは尚古荘。
昭和初期、米穀商だった岩崎明三郎が建てた庭園で、ここも無料で一般公開されている。
茶室や枯山水の庭がある。

西尾散策はまだ続く。
次回は町並み編。