九鬼嘉隆が眠る築上山頂にて <答志島・第7回>

観光地(Tourist spot)
答志島7-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 山道を歩いて登って、登って、九鬼嘉隆(くき よしたか)の首塚にたどり着いた。なんでこんな山の上にあるんだなどと文句を言ってはいけない。見晴らしのよい山の上でなければならない理由があったのだから。

 1542年、志摩国・田城城主(近鉄加茂駅近く)の九鬼定隆の次男として生まれた。
 当時の志摩の国司は北畠具教。志摩国は不安定な情勢で、地頭たちが覇権争いをしていた。
 九鬼家は、北畠氏に属する志摩海賊七人衆の一つとされていた。
 元々の九鬼家は、熊野本宮大社の神官の一族だったようで、熊野水軍にも属していたという。それが熊野を追われ、志摩に流れ着き、そこで力をつけて志摩の海賊になった。
 しかし、周囲に恨まれていたようで、あるとき周りの地頭たちに囲まれてしまう。
 父親は1551年にすでに死去しており、家督は長男の浄隆(きよたか)が継いでいた。
 兄弟は本拠の田城城で籠城して戦うも、敗北。兄の浄隆はこの戦いで戦死している(病死という説も)。敵方には、武田信玄によって隠居に追い込まれた父の信虎が加勢していた(隠居先の駿河を追われて北畠具教に寄食していた)。
 浄隆亡きあと、家督は浄隆の幼い息子の澄隆が継ぎ、嘉隆は補佐に回った。のちに、澄隆は何者かの手によって暗殺されている。裏で糸を引いていたのが嘉隆だったと噂されたが真相が明らかになることはなかった。嘉隆はたたりを恐れ、澄隆を祀る神社を建て、この話は九鬼家ではタブーとされたという。
 生き残った九鬼一族の残党は、朝熊山(あさまやま)に逃げ込んだ。ここでしばらく身を潜めることになる。
 1560年、桶狭間の戦いで勝利した信長は、伊勢攻略のため、滝川一益を派遣した。このとき嘉隆は滝川一益と知り合うことになり、助けてもらうように頼んだ。一益による信長への口利きにより、嘉隆は一益の与力として織田軍団の一員となった。
 まだ水軍を持たなかった信長は、嘉隆の存在に目をつけた。このあたりの海にも詳しいということで、水軍を結成させて、北畠家攻略へと乗り出した。
 九鬼水軍は北畠具教・具房父子との激しい戦いに勝利し、これをきっかけにのちに名門・北畠家は滅亡することになる。
 勢いに乗った嘉隆は、志摩の統一も果たし、鳥羽水軍はますます力をつけていくことになった。
 信長からのお墨付きを得て、名実ともに志摩の覇者となった九鬼嘉隆の次の相手は、信長が手を焼いていた石山本願寺を本拠とする一向一揆の勢力だった。
 信長の命により、長島の一向一揆を完膚無きまでにたたきのめし、本拠である大坂の石山本願寺へ迫った。
 身の危険を感じた石山本願寺十一世・顕如は、いったん信長と和睦を結びつつ、裏で毛利に使者を送って味方につけることに成功する。
 それを知って怒った信長は、石山本願寺への総攻撃を命じた。嘉隆は大水軍を率いて、毛利水軍と戦うことになる。
 しかし、中国地方の覇者であり、当時最強といわれた毛利水軍には太刀打ちできず、多くの船を焼かれ、大敗を喫してしまう。
 またもや信長は怒った。燃えない船を造れと無茶なことを言い、悩んだ嘉隆は船に鉄の板を張ることを思いつく。信長も金を出し惜しまなかった。
 完成した鉄甲船を率いて、再び毛利水軍との海戦に臨んだ九鬼水軍は、今度こそ圧倒的な大勝利をあげることになる。鉄甲船には火矢も鉄砲も効かないから、至近距離まで迫って、散々に打ち負かした。
 戦に負けて山に逃げ込んでいた19歳の青年は、日本一の水軍大将となり、三万五千石の大名になった。

 1582年、本能寺の変。
 織田家家臣の嘉隆ではあったが、直接の親分は滝川一益だった。一益は当初、反秀吉勢力の側で、柴田勝家とともに戦っている。
 しかしながら、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、秀吉に降伏する形で配下になった。嘉隆もそれに従った。
 秀吉も嘉隆を水軍大将と認め、信長同様、頼りにすることになる。
 紀州攻めで活躍したあと、水軍が主力の戦いがやってくる。朝鮮出兵だ(1592年・文禄の役)。
 毛利水軍を差し置いて、秀吉は成り上がりともいえる嘉隆を、水軍の総大将にした。
 これにはかなり不満を抱いた武将が多かったようだ。嘉隆の言うことを聞かない武将が続出し、朝鮮の戦いは苦戦を強いられることになる。
 戦の前半はまだよかった。圧倒的な戦力差で勝利を重ね、ソウルや平壌を落とし、朝鮮の支配も夢ではないかと思われた。しかし、ここで海戦の名将・李舜臣が登場する。李舜臣によって戦況は一変し、秀吉軍は連敗に次ぐ連敗となる。
 九鬼水軍もボロボロになり、最初の朝鮮出兵は失敗に終わる。
 これでやめておけばよかったのに、懲りない秀吉は再び朝鮮出兵を決める。慶長の役だ。
 このとき、嘉隆は選ばれなかった。前回の失敗の責任を取らされたのと、すでに50代になっていて、厳しい戦に耐えられないと判断されたようだ。
 それでめげてしまった嘉隆は、家督を次男の守隆に譲って(長男は側室の子だったため)、自分は隠居の身となった。このまま静かに余生を送ることになると思われた矢先に起きたのが関ヶ原の戦いだ。

 本来なら隠居している嘉隆には関係のない話だった。息子で九鬼家の家督を継いだ守隆は、東軍の家康に従って、上杉景勝征伐のために会津に向かった。そこで武勲もあげている。嘉隆にはどちら側かにつかなければならない必然はなかったはずだ。どちらが勝利しても家が残るようにと計らったという説もあるけど、それは後年誰がか考えたことではないだろうか。
 結果として西軍の側につくことになる。石田三成から熱心に口説かれて、伊賀、伊勢、紀伊の三国を与えるという約束をしてもらっていたとか、家康を恨んでいたという話が伝わっている。
 志摩の海の権限を持っていた九鬼家に対して、秀吉の死後、稲葉道通が通行料を払わず、それを家康に訴えたところ無視されたことに恨みを抱いたという説がある。実際のところはよく分からないけど、家康に対して憎しみを抱いていたことは確かだったようだ。
 朝鮮出兵に参加させてもらえず、鬱憤がたまっていたのかもしれない。
 昔の仲間に声をかけ、守隆が留守の鳥羽城を攻めて奪ってしまった。
 まず手始めとして、憎く思っていた稲葉道通がいる伊勢岩出城を攻めることにする。けど、これがなかなか落ちない。いったんあきらめて引き返し、怒りにまかせて船を奪い、尾張や三河で殺戮や強奪を繰り返したという。
 隠居したはずの父親が西軍について暴れまわっているという話が、家康と守隆のもとにも伝わった。家康は守隆に説得するように命じて、志摩に戻すも、不調に終わる。嘉隆はまるで言うことを聞かず、父と子は、田城城で一戦交えることになる。
 ただ、この戦は双方とも本気ではなかったようだ。家康のお目付役がついていて守隆は仕方なく戦ったといわれている。
 そうこうしているうちに、関ヶ原の戦いは東軍勝利で一日であっけなく終わってしまった。天下分け目の決戦が一日で片が付くと思った人間がどれくらいいただろう。
 西軍敗北の知らせを聞いた嘉隆は、ふと我に返った。怒り狂った気持ちがすっと消えるような感じだったかもしれない。
 わずかな共を連れ、答志島に渡った。このときすでに死を覚悟していただろうか。
 その頃息子の守隆は、家康に対して父親を助けるよう必死の嘆願を行っていた。
 池田輝政を通じて、なんとか父の命だけは助けてくれるように願い、味方に付いたらくれると約束していた領地もいらないとさえ言って頼んだ。最初は絶対許さないと言っていた家康だったが、福嶋正則も助命嘆願に加わったことで気持ちを変えた。加増もそのままで、嘉隆を許すことを約束した。
 喜び勇んだ守隆は、急いで父の元に使者を走らせた。
 その少し前、答志島。
 潮音寺に潜んでいた嘉隆の元に一人の人物が訪れた。守隆の家臣・豊田五郎右衛門だ。長女の旦那なので、義理の息子でもある。豊田は頼まれもしないのに自分の考えで嘉隆に言った。あなたが生きていては守隆に累が及んで立場が悪くなるんじゃないだろうかと。
 それを聞いた嘉隆は、それもそうだと思い、自刃することを決めた。
 洞泉庵において自ら果てた。遺言は、死後も徳川を睨むために首を山の上に掲げよ、というものだったという。
 事のいきさつを聞いた守隆は、嘆き悲しみ、余計なことをした豊田五郎右衛門に激怒した。首まで土に埋めて、切れ味の悪いノコギリでゆっくり首を切るという残虐な処刑をしている。
 遺言通り、嘉隆の首は答志島の築上(つかげ)山頂に埋められた。胴は自刃した洞泉庵の跡にある。
 五万六千石の大名に出世した守隆だったけど、心は晴れなかっただろう。家康の元で、鳥羽水軍として大坂の陣に参加するなどしたものの、晩年は奇行も目立ったそうだ。
 これが九鬼嘉隆の首塚が、答志島の山の上にある理由だ。遠くに鳥羽も見えている。鳥羽城があったのは、現在の鳥羽小学校のあたりで、鳥羽水族館が建っているところは、海に向かって突き出した大手門があった場所だ。

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 山の上から見る海と島の風景は、あの頃と今と、あまり変わっていないかもしれない。鳥羽の海岸は大きく変わってしまったけれど。
 鳥羽城ももうない。
 400年以上経った今、嘉隆の家康を恨む気持ちは消えただろうか。

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 トンビが空を舞う。

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 山道にオニユリが咲いていた。

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 首塚がある山から下りて、洞仙庵(どうせんあん)があった跡にやって来た。
 自害したとされる場所で、息子の守隆が胴体を埋めて墓を建てた。首塚に対して胴塚と呼ばれている。
 現在のものは、1669年に孫の九鬼隆季が再建したものだそうだ。

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 近くには血洗の池と呼ばれる小さな池がある。
 自刃した嘉隆の血に染まった刀と、首ををここで洗ったという。
 落とされた首は豊田五郎右衛門の使者によって家康の元に運ばれ、首実検を終えたあと、答志島に戻された。

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 答志島マップに天王神社と大日如来尊というのがあったので、ついでに寄っておくことにした。
 とても小さな社だった。
 ここでもまた上り坂を登ることになった。

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 鳥よけか、猫よけか、よく分からないけどネットが張られていた。
 これが大日如来尊だろうか。

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 こんなのがポツリ、ポツリと点在している。
 ここもネットが覆っている。

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 和具の日常風景。

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 干物が干してある。
 猫がくわえていきそうだけど、想定内なのか、猫は少ないのか。

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 最後は和具地区の路地を歩く。

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 じんじろ車は、荷物だけでなく、子供を運ぶためにも使われるようだ。

 答志島シリーズは次回が最終回となる。
 つづく。
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コメント
  • 2013/02/28 01:13
    分かりやすく解説くださってありがとうございます!
    秀吉も信長も実際には、担ぎ上げられたシンボルだとして
    実際にはさほど、戦略家?軍人であったわけではないと思えます・・おそらく、神道系の価値観をもった育ちかたをしてるひとだったのではないでしょうか?
    家康も秀吉も信玄も一益通じ、紹鷗の硝石の物流、天王寺屋津田宗達らの利休を介した戦略・硝石の物流指示・・
    一益や紹鷗を思うと・・どうも・・日本国内だけの情報で動いてるというよりは・・
    木下藤吉郎のボスにはどうも・・蕃髄院長兵衛らのグループが代々、彼らをカトリック勢力とともにサポートしてきたというような気がします・・
    戦後の日本の歴史観では西欧社会が軍事技術でも先んじてると思い込まされてるようですが・・
    実際にはすでに中号大陸インドなどで暴れまわっていた馬賊?隊商?船民らが欧州で混血化して入り込んでる??
    スペイン系ジプシー・・・らや小柄なマタドールら?の黒目黒髪でアジア人が行き来し
    各地の利権でお商売をしては
    隣国と競争意識を高め、自分たちの利益になる工作をしたり
    最後には戦争へと導き、
    巨大な儲けをもくろみ?ついでに?
    自分たちの安住の住処をも得ようとして
    戦争を企てたりしていたのではないか・・???
    それを見抜いてる人たちが・・紹鷗や一益らで
    信玄も彼らとともに協力した傭兵?助っ人?だったということではないだろうか??・・??
  • 戦国時代
    2013/02/28 23:39


     戦国時代の人たちや生き様に、今の私たちが心惹かれるのはどうしてだろうと、ときどき考えます。
     平安時代でも、鎌倉時代でも、江戸時代でもなく。
     あの時代を生きたいというわけではないのですが。
     それぞれが、それぞれなりに一所懸命生きていたからかもしれませんね。
     世界の裏で何が起きていようと関係ないと思っていたのかも。
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