国府から始まる御油宿プロローグ <名鉄の旅・第2回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
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PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 名鉄電車の旅は、国府駅から始まった。
 名鉄電車は私にとって、一番近くて、一番遠い電車だ。名古屋生活が長く、最も身近に走っているにもかかわらず、これまでほとんど乗ったことがない。利用するのはもっぱらJRか近鉄で、名鉄というのは本当に乗らない。最近でいうと、日間賀島へ行ったときに乗ったくらいだ。
 それではちょっと寂しいということで、乗り放題の券を手に入れて、一日乗れるだけ乗ってみようというのがこの日の目的だった。最初に国府から赤坂まで歩いて、最後にセントレアへ行くというのだけは決めていた。途中は状況に応じて臨機応変に乗り降りしていこうと考えていた。名鉄は昼間でも20分おきくらいに走っているから、行き当たりばったりの旅ができる。行けたところもあり、行けなかったところもあったけど、収穫のある楽しい旅になった。
 そんなわけで、今日から名鉄の旅シリーズを始めることにしたい。途中で他のネタも挟みつつ、のんびり進めていくことにしよう。まだ写真の整理も途中だから、何回くらいになるか分からない。最後のセントレア編を最初にやってしまったので、この先も旅した順にはならないかもしれない。

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 最初の目的地は、東海道の宿場町、御油宿(ごゆしゅく)だった。御油駅ではなく国府駅で降りたのは、駅前から旧東海道が通っていて、そこから歩いて御油宿に入った方が気分が出ると思ったからだ。御油駅で降りると、少し戻らないといけない。
 国府は、普通、「こくふ」と読むところがほとんどなのに、ここは「こう」と読ませる。発音は「こー」に近い。
 読み方を知らないまま電車に乗ってしまうと、電車のアナウンスで「次はこー」と言うのが聞こえても、何のことか分からず乗り過ごす可能性がある。どうして「こう」と読ませるのかは、よく知らない。
 駅名の由来は、三河の国府(こくふ)から来ている。
 国府というのは、奈良時代から平安時代にかけて国の省庁が置かれた場所で、中心には国衙(こくが)という役所があり、国司が政務を行った国庁などがあった。今でいう県庁街のようなもので、そういう場所を国府と呼んでいた。
 741年に、仏教に救いを求めた聖武天皇(奈良東大寺の大仏を建てた天皇)が、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるようにという命令を出した。現在でも国分寺や国府などという地名が残っているのは、その頃の名残だ。
 平安時代になると総社も建てなさいということになる。三河では、国分寺と国分尼寺の跡地が見つかっており、復元されたりもしている。三河総社などとまとめてまわりたかったのだけど、駅からは少し距離があって、今回は見送った。三河国の一宮である砥鹿神社(とがじんじゃ)もまだ行ったことがない。いずれ再訪の機会もあるだろう。
 国府駅は、豊橋へ向かう名鉄名古屋本線と、JRの豊橋駅へ向かう豊川線への分岐駅として、重要な駅となっている。大晦日から元日にかけては豊川稲荷への参拝客で大賑わいになるそうだ。平日の朝っぱらに降りる人はごく少ない。

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 駅前は何の変哲もない地方の町の顔をしているけど、一歩旧東海道に入ると、古い町並みの面影を垣間見せてくれる。
 宿場町らしい風情は残していないものの、格子造りの家などがポツポツ点在している。
 町並保存地区には指定されておらず、観光客を呼ぼうといった姿勢もあまり見受けられない。古くて傷んだ家はそのまま古びるに任せているし、空き家は手つかずのまま放置されている。
 わずかに残るかつての面影を見つけて喜ぶといった姿勢で臨むと、楽しい散策になる。

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 八平次記念館「八の蔵」。
 八平次さんの記念館らしい。ホール兼ギャラリーとかなんとか。

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 細く曲がった道の様子が、いかにも旧東海道という感じがする。昔の道というのはたいてい真っ直ぐではなくて、宿場町も特有のうねり方をしている。あちこち歩いてきて、だいぶそんな感じが分かってきた。
 道の両脇に建つ家は、どこも新しい今どきの家屋がほとんどだ。古い日本家屋は少ない。ここ10年くらいでもどんどん建て替えられているのだろう。
 向こうに白塀の神社が見えてきた。この日はあまり予習をしなかったから、予備知識も少なかった。この神社の存在も知らなかった。寄らなくてもよかったのだけど、なんとなく気になったので参拝しておいた。向こうが呼んだのか、こちらが引き寄せられたのか、帰ってきてから三河国府の総鎮守と知って、寄っておいてよかったと思う。

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 神社を取り囲む白塀は、1794年に、近くにあった田沼意次の所領・田沼陣屋の石垣を移築したものだそうだ。

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 知識がなくても、この神社はなかなかいいと思った。しっとりとした落ち着いた雰囲気を持っている。
 創建は平安時代の980年前後、当時の国司・大江定基が、出雲大社からオオクニヌシを勧請して建てたとされている。それ以前から地元の神社があったという話もある。
 江戸時代末期、徳川14代将軍の家茂が長州征伐へ赴く際に、ここで戦勝祈願をしたそうだ。
 これからの季節は、夏祭りや手筒花火も行われるようで、そのときにはまた賑わいを見せることだろう。

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 オオクニヌシの出雲大社ということで、やはりご利益は縁結びということになるだろうか。
 ほどよい数の絵馬が、部屋のインテリアみたいに飾られている。

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 お稲荷さんなども撮りつつ、大社神社をあとにする。
 どこから御油宿に入るのか、よく分からない。このあたりはまだ入ってなくて、追分を過ぎたところからだろうか。

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 格子に激しく反応する。でも、だんだん飽きてきて、後半では写真に撮ることもなくなる。

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 豊川のマンホール蓋。いくつか種類があるようで、これは御油の松並木とキツネが描かれている。豊川といえば豊川稲荷は外せないということで、他のパターンでもキツネは登場している。

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 御油一里塚跡があった。江戸日本橋より七十六里とある。
 一里塚というのは、旅人のための目安として、一里ごとに盛り土をした塚を作ったものだ。平安末期に始まり、江戸時代に東海道の整備とともに本格的に設けられた。
 一里は4キロ弱で、東海道126里の間に124基の一里塚が作られた。
 自分がいくつ一里塚を通ったかで、どれくらい歩いてきたかが分かるという仕組みだ。
 一里塚建設を任されたのが大久保長安だった。猿楽師(能楽師)の家に生まれた長安は、初め武田信玄にその才を見いだされ、武田家滅亡ののちは家康に仕えることになる。
 武官ではなく文官として才能を発揮した長安は、交通網の整備から金山、銀山まで一手に任されるようになり、勘定奉行、さらには老中にまで登りつめることになる。
 しかし、派手好き、女好き、浪費癖に加え、不正に金銀財宝を蓄えたという疑いをかけられ、晩年に失脚。卒中で死んで埋葬されたあと、家康の命で遺体を掘り返され、駿府城下の安倍川の川原で、斬首されて晒し首にされた。
 一里塚をせっせと作っていた頃が一番よかったのかもしれない。

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 旧東海道と本坂道(姫街道)が交わる御油の追分に出た。たぶん、このあたりから先が御油宿になるのだと思う。
 秋葉常夜灯や秋葉三尺坊道標、砥鹿神社・鳳来寺道標が建っている。
 東海道は関での取り調べが女性に厳しかったことから、それを嫌った女性たちが気賀関へ抜ける本坂道を行くことが多かったことから、通称・姫街道と呼ばれるようになったそうだ。

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 昭和の面影が残るたばこ屋の写真で、今日は終わりとなる。この続きはまた明日ということにしよう。
 次回が御油宿の本編となる。
 つづく。
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