古墳や神社は過去とつながるきっかけに

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
八幡山古墳-1

FUJIFILM S2pro+NIKKOR 50mm f1.8 / NIKKOR 55-200mm



 鶴舞公園へ行ったとき、八幡山古墳と物部神社にも寄ってきた。今日はそのあたりのことについて書いてみたい。
 古墳なんてものは元来、眺めて楽しいものではない。たいていは木々で覆われていて原形も分からないし、形も上から見ないと確認できない。何か面白いものは見えないかとぐるりと一周回ってみたところで、特にこれといったものが見つかるわけでもない。一般の人はあまり好きこのんで古墳見物に行ったりはしないと思う。
 じゃあ、古墳はまったく面白みのないものかといえばそうじゃない。古代に思いを馳せるための装置としての役割を持っている。
 現代を生きる私たちは、これまでのすべての歴史が積み重なった地面の上に暮らしている。けれど、普段そんなことを意識することはない。史跡跡の石碑や案内板程度ではそのまま素通りしてしまう。けど古墳があれば話は違ってくる。それは歴史に触れることができる確固たる実在物であり、立ち止まって思いを巡らせるきっかけになる。そこに古墳の価値があると思うのだ。
 愛知県周辺には当然ながら天皇の古墳といったものは存在しない。その代わり、古くから有力な豪族が支配していた土地だけに、たくさんの古墳が残っている。多くは壊されたり忘れ去られたりで失われてしまったものの、現存している数は少なくない。主だったものでも数十、小さいものもあわせると100を超えているはずだ。
 これまでこのブログでもいくつか紹介してきた。
 東海地方で一番大きなものは、熱田の断夫山古墳(だんぷさん)で、全長150メートルを超える前方後円墳だ。
 少し前に春日井の二子山古墳が登場した。あのあたりは味美古墳群(あじよし)といって、大小たくさんの古墳が集まっている地域だ。
 守山区には東谷山の古墳群があり、犬山には4世紀後半とされる古い前方後円墳の青塚古墳がある。
 どの古墳についてもあまり詳しい調査がされていないため、分かっていないことも多い。ただ、見つかった副葬品などからある程度の推測はされている。私たちが知らないところで日々研究も進んでいることと思う。

 今回紹介する八幡山古墳は、直径約82メートルの円墳で、5世紀中頃に造られたものと考えられている。円墳としては東海地方最大とされている。
 円墳は古墳時代を通じてたくさん造られた形で、比較的小さいものが多い。80メートルを超えるような大きなものはあまりなく、それだけ強大な力を持っていた人物が埋葬されていると想像される。被葬者ははっきりしていない。
 熱田の断夫山古墳や、春日井の二子山古墳は、5世紀末のもので、継体天皇との関係が指摘されている。前方後円墳がもうすたれた時期の5世紀末という遅い時期に、突然この地方に出現したのは、越前の継体天皇を擁立するために尾張氏が力を貸して、天皇家に近いところに入り込んだことで、死後に大きな前方後円墳が造ることを許されたのではないかという説が有力のようだ。
 それに対して、八幡山古墳の方は時期が早い。熱田と昭和区とは直線で約3キロという微妙な距離感がある。古代においてこの距離が近かったのか遠かったのかはよく分からない。尾張氏のものなのか、そうじゃなかったのか、別だったのなら平和的共存だったのか、敵対関係だったのかも分からない。
 昭和6年という早い時期に国の史跡に指定されて、発掘調査が行われたものの、戦中戦後のどさくさで出土品は失われてしまって、詳しいことは分からずじまいなってしまった。古墳自体も、軍部が高射砲陣地を設営するために木を切り倒して、山も削ってしまったので、原形をとどめていない。
 分かっているのは、5世紀の前半にこのあたりの土地を支配していた豪族の王の墓だろうということくらいだ。尾張氏なのか、たとえば物部氏なのか、予想しようにも手がかりが少なすぎる。
 名前の由来は、古墳の頭頂に八幡神社の祠があったことから来ている。今はそれもない。

八幡山古墳-2

 周壕(堀)の幅は約10メートルで、これはよく残っている。
 頭頂部分は戦後に盛り土をして形を整えたものということで、ややありがたみは薄い。
 古墳というのは、きれいに土を盛って形を整え、周りをぐるりと埴輪で取り囲むというのが一般的な姿だったようだ。航空写真で見るように周囲の堀に水が張られて、鬱蒼とした森になっているというのは後世の姿で、元々の古墳はああではなかった。今でも木は植えない方がいいんじゃないかと思うけど、そのあたりは自然に任せているのかもしれない。
 戦前は松の老木が生える森だったようだけど、今その面影はない。昭和57年以降、緑化保全地区に指定されて、再び昔の姿を取り戻すための取り組みがなされたようで、だいぶ森っぽくなってきている。桜の木が植えられていて、春には隠れた桜の名所になるんだとか。古墳に桜の組み合わせも、非常に現代的な光景だ。昔では考えられない。

八幡山古墳-3

 雑草に覆われた古墳を見て、流れた時を思う。1500年以上もよくぞ残ったというべきだろう。
 1500年という時間を想像するのはなかなか難しいことだけど、その時間の果てに今の私たちが生きているということを意識することは無駄じゃない。
 遠い昔を生きた人たちのことを思って古墳に立ち寄ってみるのも悪くない。心の中で、こんにちはとさようならをつぶやくだけでも、少しは昔の時間とつながれたような気がする。

八幡山古墳-4

 東区の車道に、物部神社がある。前からここの存在は気になっていた。
 尾張地方を尾張氏より前から支配していたのは、物部氏だったかもしれない。
 物部氏は非常に古くからの有力豪族で、天皇家(大王)の近いところに常にあった。古くからの側近家ということでは、大伴氏と物部氏の二大勢力だった。どちらも天皇家の軍事や祭祀を司っていたと考えられている。
 尾張氏は、安曇などの海人族から来ているという説が有力のようで、物部氏より新しく、天皇家に近づいたのは大和政権が確立して以降のことだろう。
 物部氏と尾張氏の関係が近かったのか遠かったのか、よく分からない。敵対関係ではなかったとすれば、同盟関係だったのだろうか。
 古くは尾張にも物部氏の支配は広く行き渡っていたようで、物部神社もたくさんあったといわれている。いつからか物部氏の勢力は弱まり、愛知県で物部神社という社名を持つのはここだけになってしまった。
 南へ500メートルほどいった千種駅の近くに、高牟神社(たかむじんじゃ)がある。ここは物部氏の武器庫があったところではないかとされている。こちらの物部神社との関係も当然あったと推測される。
 物部氏は、蘇我氏との政争に敗れて権力の中枢から蹴落とされてしまう。まずは大伴氏が外交政策の失敗で失脚し、新興勢力の蘇我氏が一気に勢いを増して台頭してきた。一般的には仏教擁護派の蘇我氏と、仏教反対で神道派の物部氏が対立して、結果的に蘇我氏が勝ったということになっている。実際は、宗教戦争といったものではなく単なる権力争いだったのだろう。
 ここから蘇我氏全盛の時代が始まり、推古天皇や聖徳太子が出てきて、日本に仏教が広まっていくことになる。そんな中で、負けた物部氏はだんだん影が薄くなっていった。
 ただ、壬申の乱のときに大海人側について活躍したことでやや勢いを取り戻し、その後、物部氏は石上を名乗るようになり、奈良県の石上神宮などに名を残すことになる。
 物部神社の本拠は島根県太田市にあり、石見国一宮となっている。その他、新潟や富山などに多く残っているところを見ると、大和では力を失ったものの地方ではその後も勢力を保っていたようだ。

八幡山古墳-5

 祭神は物部氏の祖とされる宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)。
 ウマシマジは、ニギハヤヒ(饒速日命)の子供で、弟は尾張氏の祖とされるアメノカグヤマ(天香山命)だ。
 神武天皇がこの地を平定したときに大きな石を見つけて、それを国の鎮めとし、その上に神社を建てたという伝説がある。もちろん、それをそのまま信じるわけにはいかないけど、かなり古い創建ということは確かなようで、平安時代の「延喜式」にも載っている。かつては物部天神とも称していたようだ。
 垂仁天皇のとき(29-99年)に社殿が造営されたという話もそのまま受け取るわけにはいかないだろう。尾張三代藩主・徳川綱誠(1652-1699年)のときに修理が行われたというのは確かだろうけど。
 現在は、街中にこそっと肩をすぼめるようにして建っている。かつてはもっと広い境内だったはずだ。
 社殿が東南を向いているのは何か意味があるのだろうか。元々そうだったのか、改修したときにそうなってしまったのか、詳しいことは分からないけど、ちょっと珍しい向きだ。

八幡山古墳-6

 物部氏に関しては、今後も他のところで関わりが出てきそうな気がしている。自分の中で、尾張氏との関係性をもう少しはっきりさせたいというのもある。まだよく理解できていない部分が多々ある。
 古墳も折に触れて訪ねてみたいと思っている。
記事タイトルとURLをコピーする
コメント
コメント投稿

トラックバック