
ふと思い立って東山動物園へ行ってきた。何年ぶりだろう。併設の東山植物園は去年行ったけど、動物園の方は5年ぶりくらいだろうか。平日の夕方となると、さすがに客層は限られている。小さな子供を連れたお母さん、その祖父母、学生のカップルなどがほどんどだ。ごく少数だけど、ひとりで来てる男の人や女の子もいた。そういえば私も今日がひとり動物園デビューだ。ふたり連れの女の子も意外と多かったのは少し驚いた。
植物園と両方入れて500円は安い。東山のスカイタワーとのセットでも800円だ。家から車で20分の近さなんだからもっと行きたいという思いはあるのだけど、4時半に閉まってしまうのでなかなか行く機会がない。せめて夏だけでも6時くらいまでやってくれないだろうか。
東山動物園ができたのは昭和12年。それ以前は鶴舞公園にあった。更にさかのぼると、明治23年に中区前津町で今泉七五郎氏という動物好きで変わり者のおじさん(?)が「浪越教育動物園」というのを作って公開していたのが始まりだ。
東山動物園は2回の引っ越しを経て今に至っている。その間には戦争の悲しい歴史もあった。終戦のときはゾウ2頭以外すべての動物が姿を消している。戦争の被害者はこんなところにまで及んでいたのだ。
戦後少しずつ動物の数も増え、昭和20年代終わりには戦前の規模にまで回復し、その後は社会の安定、高度経済成長とともに動物園も成長を続けていくことになる。一番活気があったのは昭和30年代だろう。40年代以降はレジャーの多様化で、動物園そのものが勢いを失っていった。
これまでに多くのスター動物が生まれた。戦争を生き延びることができた2頭のゾウ、エルドとマカニー。芸をするゴリラのゴン太。初めて日本にコアラがやってきたのもここ東山動物園だった。当時はものすごい人気で長蛇の列ができたものだ。カバの重吉や、雄ライオンのライなど、見たことはなくてもテレビなどで知っている動物も多い。
そんな歴史やドラマを持つ東山動物園の今はどうかといえば、今日行ってみた印象としては少しさびれてるかなというものだった。何しろ古い。施設もそうだけど、見せ方とか、動物の配置とか、全体に渡って現代的ではない。これは動物園という性格上、そう簡単にいじれるものではなから仕方がないといえばそうなのだろうけど、そろそろ全面的なリニューアルが必要な時期に来ているのは確かだ。大した目玉動物がいない旭川動物園が大成功を収めてるという事実がある以上、古さは言い訳にはならない。今でも上野動物園に続いて第二位の入場者数を誇る全国でもトップクラスの動物園なのだから(旭川動物園に抜かれて三位になったかも)、このままではもったいない。広いし、安いし、コアラや孫悟空のモデルになったキンシコウなどの目玉動物もいる。世界のメダカ館だってある。もっともっと可能性はあるはずだ。実際、リニューアルの話も出てるようなので期待したい。
改装するときは、ぜひ写真を撮りやすいように工夫して欲しいところだ。網や檻は極力やめてもらって、ガラスにしてももっと透明度の高いものにして欲しい。そういう垣根がなくて済むならそれに越したことはない。今は昔と違ってほとんどの人がなんらかのカメラを持ってる時代だし、若いお母さんだって一眼レフを持っているのだ。珍しい動物をただ見るだけで満足してる時代は終わった。動物園は写真を撮ってなんぼだと個人的には思う。様々な工夫を凝らして、写真撮影に特化した動物園というのを売りにすれば話題にもなるはずだ。
写真のアミメキリンについても書こうと思ったけど、また長くなったので今度にする。今日はたくさん動物の写真を撮ってきたから、しばらく動物ネタが続くことになる。動物だけでも2ヶ月くらい持ちそうだ。って、それは飽きそうだから、適当に他のことも混ぜないと。
昔から動物園というのはあまり好きな場所じゃなかった。それは、東山動物園の池のボートにカップルで乗ると別れる、という名古屋の伝説を恐れたわけではない(実際それは当たってしまったのだけど)。狭いところに閉じこめられている動物を見るとかわいそうに思えたからだ。
でもそれは動物園の一面でしかない。確かにそういう面もあるけど、動物園はそれだけではない。たとえるなら、人が生き物の肉を食べて生きているのに似ているかもしれない。動物園の動物たちが人間に与えてくれるものは小さくない。単純に感動とか楽しさとかだけじゃなく、見て感じて考えるきっかけを与えてくれる場所としての価値がある。動物たちに対してありがたい、ありがとうという気持ちを持つことができれば、動物園というのはとても幸せな空間となる。動物を見て喜ぶ子供、その子供の姿を見て嬉しそうにしてる両親や祖父母、無邪気に感動してる女の子と少し照れている男の子。そんな幸福の連鎖反応があり、そこに悪意はない。
少し心が疲れたときなんかに行くのもいい。動物たちの目を見て、不幸を共感することで慰められるということもあるかもしれない。