浮き沈みの激しかった福井城に桜の木は残った<第8回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
福井城-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 福井市は、第二次大戦の空襲によって、市街地の95パーセントを消失した。
 もし、福井が戦火に遭っていなければ、今頃は金沢のようなしっとりとした城下町の風情を残していただろう。昭和23年の福井地震と九頭竜川堤防決壊が、それに追い打ちをかけた。現在の福井に古い城下町の面影を見つけるのは難しい。
 福井市は、柴田勝家が築いた北ノ庄城とその城下町に始まる。それを引き継いだのが、関ヶ原の戦いあと、この地にやってきた結城秀康だった。

 柴田勝家が天守とともに命を落とした後、織田家家老で秀吉側についた丹羽長秀が北ノ庄に入る。そのあと、堀秀政、青木秀以と城主が変わり、関ヶ原の戦いで青木秀以は西軍についたため、戦後に所領を没収され、家康の次男である結城秀康が68万石で送り込まれることになった(1601年)。
 今の柴田神社がある古い北ノ庄城址と、福井城の本丸があった場所とは、直線距離で600メートルほど離れている。だから、これが同じ城跡だったと言われてもピンと来ない。それだけ元の北ノ庄城が広大な城郭だったということなのだけど、街に埋もれる北ノ庄城址からそれを想像するのは難しい。
 新しい北ノ庄城は、家康が本丸と二の丸の縄張りをしたといわれている。家康ならではの計算や思惑があったのだろうけど、本丸の位置をかなり北にずらしている。
 結城秀康が来たとき、古い北ノ庄城はかなり荒れていてそのままでは使えなかったようだ。徹底的に壊して、ほとんど一から作り直すことになった。おかげで古い北ノ庄城の遺構はほとんど残っていない。天守があった位置さえもはっきりとは分かっていない。
 結城秀康があらたに建てた城も、北ノ庄城という名前のままだった。福井城と名を変えたのは、三代藩主・松平忠昌の時代で、北は敗北に通じるから不吉だというので、福居と改め、のちに福井とされた。
 68万石というのは大変なもので、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家に次ぐものだった。徳川御三家筆頭の尾張家でさえ61万石で、福井藩は他の大名とは別格の制外の家とされ、御三家に匹敵する影響力を持っていた。
 1604年に秀康は松平の性を名乗ることを許され、新・北ノ庄城は、全国諸大名に命じられた天下普請によって6年の歳月をかけて築城された。城郭は2キロ四方で、5重の水堀が囲む4重5階(もしくは6階)の天守が建てられた。
 しかし、1669年に消失してしまい、藩の財政悪化もあって天守が再建されることはなかった。その頃には戦もなくなっていて、天守は不要で幕府の許可が下りなかったともいわれている。
 本丸の南西にあった2重巽櫓を3重に再建して天守の代わりとした。
 その後の福井藩は、浮き沈みを繰り返し、幕末の頃にはやや盛り返して32万石の城下町として、かなりの賑わいを見せていたという。
 あまり藩主に恵まれなかったということもあった。ただ、最後に来て幕末三名君といわれた松平慶永(春嶽は近居後の号)を輩出することになった。
 田安徳川家から養子に入った慶永は、将軍一橋慶喜の擁立などにも深く関わっている。
 先週の「龍馬伝」で、龍馬が千両を借りに行ったのが、その福井藩の松平慶永だ。
 明治に入ると、福井城は早々に取り壊しが始まった。まずは外堀が埋められ、残った建物なども壊されていった。あとには内堀と天守台だけが残った。
 今は本丸の跡に福井県庁と福井警察本部が建っている。堀の外に官公庁が建ち並んでいるところは多いけど、本丸址にでんと居座っているところはあまりないんじゃないか。内堀の外は散歩コースになっているものの、城内の跡は観光地という趣ではない。
 それでも、4月は桜がよく咲いていた。

福井城-2

 本丸への西の出入り口にあたる御廊下橋(おろうかばし)は、屋根付きの橋になっている。
 藩主が本丸と西三の丸御座所を往復するための専用の橋で、普通の人は渡れなかった橋のようだ。
 2008年に屋根の部分が復元された。
 本丸にあった巽櫓も復元しようという動きがあるようだ。実現すれば福井城を訪れる人も増えることだろう。今は見にいっても、石垣と堀しかないから、一般受けはしない。石垣を見て、見事な切り込みハギですなぁなどと感心するのは、一部の人に限られる。
 本丸御殿にあった小座敷・御座之間が瑞源寺に移築されて、本堂・書院として使われているそうだ。

福井城-3

 見所が少ないということは撮るものも少ないということで、上空を飛んでいたトンビでも撮ってみる。

福井城-4

 撮るものに事欠いて、スズメなんかも撮ったりした。

福井城-5

 歩いてる親子の後ろ姿を撮ったり。

福井城-6

 なかなか見事な桜で、このあたりはよかった。

福井城-7

 城跡に桜という組み合わせは多い。城には桜がよく似合う。

福井城-8

 結城秀康の像。
 秀康は家康の次男として、浜松で生まれた。
 母親は、家康の正室・築山殿の奥女中をしていた於万の方で、生まれるとすぐ本多重次に預けられている。
 築山殿というのはキツい人で、家康はかなり恐れていたという。
 築山殿の産んだ子供が長男の信康で、のちに信康は武田と通じた疑いをかけられて信長に切腹を命じられた。母親の築山殿もそれに関わったということで殺されている。
 次男だから本来なら家康の跡を継いで二代将軍になってもよさそうなところだけど、家康はどうも秀康を嫌っていたようだ。産まれたのを喜ばず、初めて対面したのは5歳のときだったともいわれている。
 母親が奥女中をしていた身分が低い女性だったこともあるだろう。弟の秀忠の母親も側室ながら、有力な菊池氏一族の西郷局だったから、信康亡き後は早くから秀忠が嫡子として育てられることになる。
 跡取りになれなかった秀康は、小牧長久手の戦いののちの和平交渉で、秀吉の養子として大坂に送られることになった。実質的には人質だ。
 ただ、秀康は折り合いの悪かった家康よりも秀吉になついていたそうだ。秀康という名前は、秀吉の秀と家康の康からとったものだ。
 14歳のとき、秀吉の九州遠征に従って初陣を飾る。武将としての実力はなかりのものだったようで、関東の名門・結城晴朝がぜひうちに欲しいという話になり、秀康は晴朝の姪と結婚して、結城氏の家督と11万1,000石を継ぐことになった。以降、合戦で武勲をあげ、名を高めていく。
 1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦となった上杉征伐に秀康も加わることになった。石田三成が挙兵したことで家康の本隊はとって返し、秀康は宇都宮で上杉ににらみを効かせるために残されることになった。弟の秀忠では頼りないから自分も西に向かわせて欲しいと訴えたものの、本多正信に説得されて聞き入れられなかった。秀忠は真田親子に散々おちょくられて関ヶ原の合戦に遅刻して間に合わなかったけど、もし秀康が参加していたらそうはならなかったかもしれない。
 それでも、関ヶ原前後の活躍で家康は秀康に対する評価を改めたようで、結果的には北ノ庄67万石を与えられることになった。それでめでたしめでたしとなるかと思いきや、1607年にはわずらっていた病が悪化して、あっけなく死んでしまう。まだ34歳だった。

福井城-9

 福井城の歴史は知らなくても、季節は巡り、4月になれば桜は咲く。
 戦国の武将たちは、戦国の世を終わらせるために戦って命を散らせた。桜咲く平和な城跡を見て、彼らは満足してくれるだろうか。

福井城-10

 御廊下橋をもう一度。渡っていくのは孫の手を引くおばあちゃん。

福井城-11

 駅に向かって歩く頃、日はだいぶ西に傾きかけていた。
 こうして福井の旅は無事に終わった。

福井城-12

 おみやげは福井名物、羽二重餅。基本のプレーンなやつ。
 福井では羽二重織りがよく織られていたということで、そこから名物が生まれた。スタンダードな美味しさだ。
 これにて福井シリーズは完結となった。
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