北ノ庄で散った勝家の名残はわずか <第7回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
柴田神社入り口鳥居

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 北ノ庄城址は、商店街のただ中にひっそりと埋もれるようにわずかにその痕跡をとどめている。地図には小さく柴田神社とあり、よく探さないと見つからない。人々の記憶からも薄れ、県外からあえてこの地を訪れようというのは、少数の戦国好きくらいだろうか。
 かつて安土城に匹敵するほどの九層の天守を持つ壮麗な城がそびえていたと言われても、その姿をこの地に想像するのは難しい。今はただ、小さな公園にある小さな神社にすぎない。

 柴田勝家は、尾張(名古屋市名東区)に生まれ、若い頃から信長の父親、織田信秀に仕えていた。
 信秀なきあと、信長の異母弟にあたる信行に仕えて、信長をやっつけようとして逆に負けてしまい、頭を丸めて信長に降伏した。以降は、信長に従い、最後まで織田家の重鎮として戦国の世を戦い続けていくことになる。
 勝家が北ノ庄にやって来たのは1575年。信長はその2年前に宿敵だった朝倉氏を滅ぼしたものの、一向一揆の激しい抵抗にあい、北ノ庄を乗っ取られてしまう。それをもう一度取り返すために送り込んだのが、勇猛な武将として知られ、信長の信頼も厚い鬼柴田こと勝家だった。
 山間にあった朝倉氏の本拠、一乗谷を捨てて、平地に新たに城を築くように命じ、自ら城の縄張りまでしたという。
 足羽川(あすわがわ)を背に、あえて背水の陣に城を築いたのは、北の上杉謙信を意識してのことだろう。
 北ノ庄の名前の由来は、このあたりが伊勢神宮の荘園で、足羽川の北岸にあった足羽北庄から来ているといわれている。長く朝倉氏の支配する土地だった。
 三万を超える大軍によって、越前の一向一揆は平定される。
 それと同時に、北ノ庄城の築城も進められた。少し遅れて、安土城の築城も始まっている。
 北国の軍団長を任せられた勝家は、上杉攻略のため北へと進軍する。一方の上杉もこれを迎え撃つべく南下を始めた。手取川の戦いでは上杉軍が勝利している。この当時の上杉軍は強かった。織田軍など相手にもならないくらいだった。
 しかし、1578年に上杉謙信が急死したことで事態は一変する。混乱した上杉軍を突いて勝家が打って出る。加賀、能登、越中まで軍を進め、上杉を追い詰めた。
 ところがここでまたしても思いがけないことが起きる。本能寺の変だ(1582年)。魚津城攻めの最中に勝家はその報告を受ける。
 信長の後継者を決めるため、主だった家臣たちが尾張の本拠、清洲城に集まった。世に言う清洲会議だ。
 このときの話は以前にも少し書いたことがあるし、書くと長くなるので省略したい。結論から言うと、秀吉にちょろまかされた。後継者争いの主流側に入れず反対側に回った勝家は、賤ヶ岳で秀吉と戦うことになり敗北。北ノ庄城に逃げ帰ることになった。
 ほどなくして北ノ庄城は秀吉の大軍に囲まれ、勝家は自ら城に火を放ち、自決。城とともに燃え落ちた。4年の歳月をかけて築いた壮麗な城は、わずか5年で幻と消えた。もうひとつの安土城とも呼べる城が福井にあったのだ。



柴田神社外観

 柴田神社は、北ノ庄城の本丸があったと考えられる場所に鎮座している。
 落城後、福井城を建て直す際に、北ノ庄城は徹底的に壊れたため、遺構や記録がほとんど残っておらず、詳しいことは分からないという。 
 江戸時代から勝家とお市の方のために石祠があったようで、明治23年になって、旧福井藩主の松平春嶽たちによって柴田神社が創建された。



お市の方の像

 どちらが表でどちらが裏手なのかはよく分からないのだけど、南は広い通りに面している。私は北の商店街の方から入ったから、ビルの谷間にこそっとはまり込んでいるような印象を受けた。もし、南から入って北から出ていなければ、印象は違ったものになっただろう。
 写真を撮っていたら、南から来た子供が神社の中を猛スピードで駆け抜けていったので、ちょっと驚いた。



北ノ庄城跡

 南側から見るとこんなふうになっている。こちらは神社というより公園だ。
 左手には資料館が併設されている。
 何度か行われた発掘調査で見つかったものや資料などが展示されている。
 左端に写っている橋は、勝家が足羽川を整備するときに架けた九十九橋を再現したものだ。半石半木のユニークな造りになっている。欄干の一部は当時のものらしい。
 勝家は城下町を発展させ、善政をした殿様の一面も持ち合わせていた。



神社拝殿

 社殿はごく新しいと思ったら、2002年に再建されたものだそうだ。何度か火事で焼けて建て直されている。



柴田勝家の像

 手前が勝家像で、奥がお市の方の像だ。
 勝家の悲劇性を高めているのは、お市の方の存在があったからこそだ。
 信長の妹で、戦国一の美女といわれたお市の方は、織田家と浅井家が同盟を結ぶために、信長の命によって浅井長政と政略結婚させられた。
 ただ、この二人は相性がよかったようで、とても仲が良かったと伝わっている。子供も5人生まれている(異説あり)。
 しかし、浅井と織田家との同盟が破られ、浅井長政が信長によって滅ぼされてしまう。落城直前、夫に諭されたお市の方は、子供たちを連れて城を逃げ延び、織田家に保護されることになる。長男は殺され、次男は仏門に入れられたものの、三姉妹は助けられ、織田家で育つことになった。
 本能寺の変で信長がいなくなると、織田家も安泰ではなくなった。織田信孝(信長の三男)の仲介で、勝家との再婚をすすめられ、お市の方はこれを受ける。一説では秀吉がこの話をすすめたともされているが、真相は明らかではない。
 無骨で戦いに明け暮れた印象がある勝家だけど、人間的な魅力もあったようだ。幼い三姉妹も勝家になついていたという。
 このとき勝家62歳、お市の方37歳。北ノ庄での結婚生活が、わずか半年で終わることになるとは、このときはまだ二人は思いもしなかっただろう。
 北ノ庄城が落城するとき、勝家は当然のことながらお市の方に城から出るように説得した。しかし、お市の方は、このときばかりは言うことを聞かなかった。二度までも夫を捨てて自分だけ助かるのをよしとしなかったとも、自分を狙っている秀吉の手に落ちることを嫌がったともいわれている。
 三人の娘だけを逃がして、自分は勝家と共に死を選んだ。
 その後、三姉妹の長女、茶々は秀吉の側室になり淀殿と呼ばれ、秀頼を産んだ。その淀殿も大坂の陣で大坂城と運命を共にすることとなる。
 お初は若狭小浜藩主、京極高次の夫人になり、お江は二度の別離ののち、徳川二代将軍秀忠の正室になった。
 お江の長女が千姫で秀頼の正室となり、三女の勝姫は越前二代藩主松平忠直の正室になって北ノ庄に戻ることになる。末娘の和子姫は、御水尾天皇の皇后として天皇家に嫁ぐことになった。
 画家の平山郁夫は柴田勝家の子孫だそうだ。



佐佳枝廻社

 柴田神社をあとにして、福井城へ向かった。
 途中でよさそうな神社があったので、ちょっと立ち寄っていくことにする。
 佐佳枝廻社とあったけど、何と読むのか、このときは分からなかった。さかえのやしろと読むそうだ。



灯籠と桜

 福井の街は桜が多いところ、福井城の他、桜の風景が印象に残った。



拝殿前の参拝者

 1628年、福井城内に家康を祀るための東照宮として建てたのが始まりで、明治6年に福井藩祖の結城秀康(松平秀康)を祀るとなったとき、松平春嶽が佐佳枝廻社と命名した。明治24年には松平春嶽も合祀されている。明治29年に、現在地に移された。
 昭和20年に戦災で消失。昭和23年には福井地震で壊滅し、翌年、京都下鴨の三井家祖霊社を移築して拝殿とした。本殿は昭和30年に再建された。その後老朽化が進み、現在の姿になったのは、平成4年のことだそうだ。



左近の桜

 左近の桜というのがあった。島左近は福井とは関係ないだろうにと、このときは思っていた。
 左近の桜というのは、もともと平安京にあった桜で、紫宸殿の左にあったことからそう名づけられたものだそうだ。最初は梅だったらしい。
 今の京都御所にも左近の桜が植えられている。ここはそれと関係があるのだろうか。この神社には戦前、天皇の勅使も訪れたというから、枝分けしてもらったものかもしれない。



岡倉天心の像

 福井城の西に隣接する中央公園に、岡倉天心の像が建っていた。
 父親が福井藩士だった関係で、ここに像が建てられているようだ。岡倉天心は横浜で生まれて、東京で過ごし、駒込の染井墓地に眠っている。永平寺を心のふるさとと言っていたそうだから、何度か訪れたことがあったのだろうか。
 他にも由利公正の像などもあるようだ。



福井神社

 福井神社という名前からしてぜひ挨拶に行かねばなるまいと、前まで行って入るのがためらわれた。なんとも変わった神社で、不思議な感じがした。まるで神社らしくない。
 なんとなく拍子抜けして、中まで入らず、外から頭を下げるだけになってしまった。
 松平春嶽が祀られているようだ。
 継体天皇ゆかりの足羽神社は、ちょっと遠くて行けなかったのが残念だった。

 東尋坊から始まった福井シリーズは、次回の福井城編で最終回となる。
 つづく。
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