
PENTAX K10D+PENTAX-M 50mm f1.4
一度撮ってみたいと思いながら、遠くてなかなか行けないところがある。富良野とか、屋久島とか、いろいろあるのだけど、軍艦島もそのうちの一つだ。
長崎の沖に浮かぶ島で、正式名を端島(はしま)という。海上から見る姿が旧日本海軍の軍艦「土佐」に似ていることから、いつしか軍艦島と呼ばれるようになった。
その存在を初めて知ったのは、福山雅治が軍艦島で写真を撮るというドキュメンタリー番組だった。夢と繁栄の残骸とでも言うべき荒れ果てた姿に衝撃を受けた。
かつて海底炭坑によって栄えたこの島は、東京を上回る世界一の人口密度を誇っていた。日本初の7階建て鉄筋コンクリートの集合住宅が建ち、建物と人間がひしめく一つの都市にまで成長していた。各種娯楽施設や7階建ての小中学校、大病院などもあり、最盛期には小さな島に5,000人以上の人が暮らしていたという。
しかしその後、石炭産業は廃れ、炭坑は閉鎖され、人々は次々と島を離れることになる。昭和49年(1974年)、ついにすべての人が島を去り、軍艦島は無人島となった。
捨て置かれた街は崩れ去り、廃墟と化した。それから長らく島は立ち入り禁止となった。
2001年、所有が三菱から長崎市に移り、2005年には30年ぶりに報道関係者限定で上陸が許可される。そのときにあちこちで紹介されたことで一般にも知られるようになった。
観光客の上陸が可能になったのは、去年2009年の4月のことだ。廃墟好きの私としては、一度は絶対撮ってみたいという思いと、最後まで楽しみに取っておきたい気持ちの両方がある。
明治村に軍艦島の模型があるのは、長崎居留地二十五番館だ。長崎つながりということだろうと思う。古い写真も展示されている。

宇治山田郵便局の中にポストの変遷展示がある。
今でも残る丸ポストは左のものだ。右のデザインの方が古いから、これはあまり残ってないんじゃないかと思う。その右は古すぎて見たことがない。
丸ポストも微妙なデザインの違いがあって、取り出し口が右向きだったり左向きだったりするものもある。
地方や観光地に行くとけっこう見かける。全国ではまだ1万近く残っているそうだから、ものすごく珍しいというわけではなく、コンプリートしようと思ったら相当大変だ。

昔の薬屋の看板。
日月丸やウルユスというのはどんな薬だったのだろう。名前からは薬効が想像できない。

どういう機械のメーターか、見当もつかない。TRADE MARKというのはメーカー名だろうか。
こういうマシンのたぐいも明治に入ってから初めて日本人は目にすることになった。江戸時代にこんなものを庶民は目にしていない。
現代の私たちがパソコンや携帯電話を初めて見たときよりもずっと大きな衝撃を受けたことだろう。目新しいものが大量に流れ込んできて、最初は受け入れるのも大変だったに違いない。けど、日本人は案外なんでもすんなり受け入れる国民性だから、明治の人たちも慣れてしまえばすぐに当たり前の感覚になったのだろうと想像はつく。

古い顕微鏡。北里研究所で使われていたものだろうか。
どの程度の性能で、どれくらい小さなものまで見えたのだろう。顕微鏡で見えない病原体は見つからないし、新たな発見は技術の進歩を待たなければならなかった。
技術と学問と生活といったものは渾然一体となりながら前へ進んでいく。必要が生み出す技術もあるし、技術革新が新しい需要を生むこともある。現在の私たちも、まだその途中だ。今使っている最先端のメカやマシンも、100年後から見れば素朴で遅れたものに見える。

理科の実験を思い出させる器具類。こういうのも全部名前がついているのだろうけど、基本的なものしか知らない。三角フラスコとかシャーレなんて、懐かしい響きだ。
石綿金網をアルコールランプで無邪気にあぶっていたけど、大丈夫だったんだろうか。当時は天井もアスベストが使われていたかもしれない。

たくさん並んだ薬ビンの数々。これを見てトキメキを覚える人もいるだろう。私はちょっといいなと思うくらいだ。

商家の番頭が座るところ。
後ろに置かれているのは昔の扇風機だろうか。うちわが放射状に取り付けられていて、回りながらぱたぱたあおいでくれる感じだ。
ただ、電気仕掛けにしてはメカの部分が見えないから、手動かもしれない。背後で小僧がぐるぐる回すとか。

ダイヤル式の黒電話が私の知る一番古い電話機で、話すところと聞くところがセパレートになっているタイプは見たことがない。田舎にもなかった。いつくらいまでこのタイプは使われていたのだろう。

電話交換機だ。昔は電話交換手という職業があって、まず電話をかけるとそのオペレーターにつながる。そこで番号を言うと、オペレーターはコードをつなぎなおして先方へと伝えることになる。電話機にダイヤルのたぐいがついていないから、そうやって人を介してつなぐしかなかった。
古い映画などではたいてい女の人がやっている。オペレーターガールは昔の憧れの職業だったのだろうか。

射的場。これは昭和まで続いた庶民の娯楽の一つだった。家の近くにはなかったけど、温泉街や遊園地などにはあった。祭りの夜店にもあっただろうか。
5発300円で遊べるようになっているけど、欲しい景品がない。景品は明治村のオリジナルグッズなどのおみやげものがいいんじゃないか。

第四高等学校武術道場「無声堂」。
以前行ったとき、この外にある階段のところで行定勲監督とすれ違った。一瞬、どこかで見たことがあるなと思って、立ち止まって振り返ったところで思い出した。
ちょうど映画『春の雪』を撮影しにきていたときで、準備の途中といった様子だった。まだセットを組んでいる途中で、撮影は始まっていないようだった。妻夫木くんの姿はなかった。
少し前にWOWOWで放映されたから観た人もいるかもしれない。かなり明治村が使われていて、学校になっていたのは連隊兵舎だったと思う。この道場も出てきていた。
明治村の在庫写真は中途半端に残った。あと一回分には少し足りないけど、水増ししてもう一回続けることになりそうだ。