センチメンタルでもありノスタルジーでもあり <雨上がり・前編>
2010-02-18|日常写真(Everyday life)

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8
雨上がりの近所を歩く。歩くことで見えることもあり、撮れる写真もある。見知らぬ街で撮るのも楽しいけど、近所もなかなか捨てたもんじゃない。特に雨上がりなんてのはチャンス到来だ。何でもない風景にちょっとした味付けをしてくれる。
この日は降り続いた小雨が夕方にやんで、日没前には日差しが戻った。そのときに撮った写真を前後編の2回に分けてお届けしたい。

猫が顔を洗うと次の日は雨と言うけど、こいつは雨上がりに顔を洗っていた。
猫は湿気が嫌いで、湿度が高くなるとムズムズしてきて顔を洗うような動作をすることから、そう言われるようになったらしい。このときは雨上がりで空気が湿気てたから、外に出てみたら顔を洗いたくなったのかもしれない。
首輪をしていたから飼い猫だ。

梅がポツポツ花を咲かせ始めていた。
今年は梅の動向をあまり気にしていなくて、各地でどれくらい進んでいるのか掴んでいない。
まだ見たことがなくて行ってみたい梅名所としては、津の結城神社がある。あそこのしだれ梅は有名だ。満開は2月の終わりか、3月のはじめくらいだろうか。
農業センターのしだれ梅も、行けたら行きたい。

柿の実が落ちて、地面に転がっていた。たぶん、柿の実だと思うけど、2月のこんな時期まで柿は実っているものだろうか。ふいに自信がなくなった。

面白い造形の木だ。何かの理由で枝を切り落としてこんな恰好になったのだろう。

懐かしい感じの看板。古いトタン張りの家に、重ねるように看板を張り付けている。
どの看板も色褪せて、文字も消えかけている。この中のどれくらいが現在も続いているのか。

昔ながらの団地らしい団地。昭和の面影が色濃い。
団地ゾーンというのは、公道ではあっても住人の専用エリアみたいな空気感があって、よそ者はちょっと入って行きづらい。中に入り込んで写真を撮っている人なんて、まずいない。団地萌えの人くらいだろう。
団地の建物そのものにはさほど興味はないけど、その中で見られる人々の風景というのは常々撮りたいと思っている。日常のドラマが垣間見えたりするから。

団地といえば子供がよく似合う。昔は団地にたくさんの子供がいて、公園はいつも賑やかな声が響いていた。最近はそういう光景が少なくなって、少し寂しい。
でも子供はやっぱり子供らしくもあり、元気に駆けている。
すれ違いざまにこんにちはと大きな声で挨拶されたので少し驚きつつ、こんにちはと挨拶を返した。

団地近くの駄菓子屋から集団で出てきた子供たち。昔とあまり変わらない風景も残っている。
あの頃に戻りたいとは決して思わないけど、懐かしい。

月日は流れ、風雨に晒され、建物は朽ち、希望は色褪せる。
風化した建物を見るとよく思い出すのは、中原中也が訳したランボーの詩の一節だ。
「季節(とき)が流れる 城塞(おしろ)が見える 無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處(どこ)にあらう」
私が感じているのは、センチメンタルなのか、ノスタルジーなのか、あるいは別の感情なのだろうか。

自分の気持ちが惹かれたものを被写体として真っ直ぐ素直に撮る。そこに意味とか理由付けは必要ないのかもしれない。
工場の古びたドアなんかに何の意味があるのかと問われて、理屈で答えることはできるけど、たぶんそれはしなくていいのだ。

手に持っている傘が間抜けなくらい空が晴れてきた。こうなると傘は邪魔でしかない。
夕焼け空が撮れそうだったから、河原まで出ることにした。
後編は雨上がりの河原風景をお送りします。
つづく。
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