金ヶ崎の歴史に思いを馳せながら鉄道や港を見て歩く <第六回>

観光地(Tourist spot)
敦賀2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 金ヶ崎(かねがさき)地区へとやって来た。特に何か目的があったわけでもなく、なんとなく金ヶ崎宮あたりがどうなっているのか気になったので、見にいってみることにしたのだった。
 地図に敦賀駅から金ヶ崎まで鉄道の線路があるのを見て、これに乗ればいいやと思っていたら、貨物専用の路線だった。しかも、今年の4月で貨物列車も廃止になっていた。今は線路だけが残されている。
 普通の電車にも特別な興味がない私だから、貨物列車への思い入れは当然それ以下ということになる。こういう風景を眺めても、うーむ、とうなるばかりで感想らしい感想は浮かばない。最後の貨物列車が走った日は、各地から電車の人たちが集まったそうだ。
 かつては敦賀駅から敦賀港へ、人や物をたくさん運び、たいそうな賑わいを見せていたそうだけど、今はひっそりして往時の面影はない。欧亜国際連絡列車と呼ばれる人用の列車が走っていたのも、今は昔の今昔物語だ。

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 金ヶ崎の退き口(のきぐち)の旗を見て、ああ、ここがあの場所なんだと初めて気づく。行く前はまったく意識していなかった。
 戦国野郎や戦国お嬢ならよく知っている有名な戦いの舞台だ。
 織田信長・徳川家康軍が、越前の浅倉義景を攻めたとき、信長義弟の浅井長政の裏切りに遭い、近江と挟み撃ちされることを知らせるためにお市の方が両方の口を結んだ小豆を送ったというあのエピソードだ。
 このとき、撤退する信長軍を守るために秀吉がしんがりを名乗り出たという話が伝わっている。実際のところは定かではないけど、無事に逃げ延びた信長が秀吉に恩賞を与えたのは事実のようだから、戦いでの活躍はあったのだろうと思う。このとき、明智光秀や前田利家も一緒に戦っている。
 思えばこの地は、織田軍団のフルメンバーが勢揃いした唯一の場所だったかもしれない。その金ヶ崎がここなんだと思ったら、ちょっと感慨深いものがあった。

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 ここ金ヶ崎は、戦国時代の前にも一度、重要な戦いの舞台になっている。
 上の写真に写っている山は金ヶ崎山で、かつてこの上には金ヶ崎城が建っていた。今は跡地だけになっている。
 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の呼びかけに応じた新田義貞は、鎌倉で北条氏を打ち破って幕府打倒を果たす。
 しかし、その後、いろんないざこざがあり、足利尊氏との争いに敗れて北陸に逃れることになった。後醍醐天皇の皇子である尊良親王や恒良親王などとともに金ヶ崎城に籠城するも、半年後に持ちこたえられなくなり、城に火を放って尊良親王は自害。恒良親王は捕まって京都に連れて行かれた。
 新田義貞もその後の戦で敗れ、福井市で戦死した。
 金ヶ崎宮は、建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)の一つで、南朝側の皇族や武将を祀るために、明治になってから建てられた神社だ(明治25年)。城跡の麓あたりにある。 
 ちょっと遠そうだったので、入口だけ見て終わった。城跡も、山道を登っていかないといけないようだ。
 関ヶ原の戦いにおいて、石田三成の盟友だった大谷吉継がいた敦賀城は、ここより西、現在の敦賀西小学校裏手の真願寺あたりにあったとされている。今はもう跡もほとんど残っていない。

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 近くに赤煉瓦造りのランプ小屋と呼ばれる建物が残っている。
 欧亜国際連絡列車が発着していたとき、燃料を保管していた小屋らしい。
 内部を一般公開しているようだけど、入口が見つからなかった。たぶん、この裏手だったのだと思う。

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 敦賀の赤煉瓦といえば、赤レンガ倉庫が有名だ。
 金ヶ崎宮から敦賀港へ向かう途中に建っている。これは最初から見に行くつもりだった。

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 かなり保存状態がいい。赤煉瓦の壁は、崩れたり傷んだりしてるところも少なく、きれいな状態を保っている。
 明治32年に敦賀港が外国貿易港に指定され、紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が石油の貯蔵庫として建てたのがこの赤レンガ倉庫だ。
 戦争中は軍の倉庫として使われ、戦後は海産物の貯蔵庫として使用されていたという。
 敦賀市に寄贈されたのが平成15年というから、最近まで現役として使われていたのだ。だから、整備されてきれいな状態なのだろう。
 地面に照明灯が設置されているから、夜間はライトアップされるようだ。

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 明治という時代を考えると、とてもハイカラなデザインだ。電灯は昔のデザインだろうか。

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 使われなくなった建物はゆっくり朽ちていき、少しずつ自然と同化していく。

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 赤煉瓦から少し歩いたところに、かつての敦賀港駅の駅舎が再現されている。
 当時のものを移築したものではなく、大正2年に建造されたものを資料を基にして建て直したものだそうだ(1999年築)。
 中は鉄道資料館になっている。

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 せっかく前を通ったことだし、無料でもあったので、少しだけ中を見ていくことにした。
 これはかつての敦賀港駅を再現したものだろうか。
 かつての欧亜国際連絡列車は、東京の新橋と金ヶ崎を直通で結び、ここで船に乗り換えてウラジオストックへ行き、そこからシベリア鉄道でヨーロッパまでつながっていた。それまでは海路で40日かかっていた東京ーパリ間を17日で行けるようになったというので、大変な賑わいだったそうだ。一週間に3往復の便があったらしい。
 新橋からパリ行きの列車の切符が買えたというのも、なんだかロマンチックな話だ。

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 当時の機関車の模型や、職員の制服なども展示してある。
 二階にもいろんな展示物があるようだけど、あまり深入りしてもなんだというので、早々においとました。

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 敦賀港は観光の港ではないので、立ち入り禁止のところが多く、中までは入っていけなかった。
 尾鷲港のように、一般人が勝手気ままに釣りを楽しむといった雰囲気ではない。
 日本海は外界と直接向き合っているから、ガードが堅いというか、緊張感がある。その点、太平洋側の湾港などはのんびりしたものだ。

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 夕方が近づいて、残り時間が少なくなってきた。
 ここから気比の松原がある松原公園までは2キロ近くあったのだけど、バスのルートも乗り場も分からないので、ぷらぷら歩いていくことにした。その話はまた次回としたい。
 つづく。
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