桑名神社特集その3~天武・持統天皇の足跡編 <桑名12回> - 現身日和 【うつせみびより】

桑名神社特集その3~天武・持統天皇の足跡編 <桑名12回>

桑名神社3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名には天武天皇と持統天皇の足跡を伝える伝承が残っていて、それにまつわる神社が二つある。今日はそれを紹介しつつ、壬申の乱とそれ以降についても少し書いてみたい。
 天智天皇とその弟とされる天武天皇、そして天智の息子の大友皇子との関係性について、ある程度は大津編のときに書いたものの、私自身まだいくつかの疑問が解消されずに残っていて、自分の中で整理がついていない。
 天智と天武が血のつながった兄弟でないのはまず間違いないだろうとは思っている。では天武天皇とは何者だったのかといえば、はっきりしたことは予想としても言い切れない。天皇家と縁もゆかりもない渡来系の人間が天皇家を乗っ取ったわけでもないだろうし、漢皇子というのもありそうでなさそうだ。
 天智天皇の娘4人と結婚していることや、白村江の戦いで登場してないこと、「日本書紀」の年齢隠しなど、釈然としないことがいくつかある。
 律令制の基礎を築いた名君といっていいほどなのに、どうも後世の評価が低いのも気になるところだ。壬申の乱自体、戦前の義務教育では教科書に載せなかったという。
 当時は暗黙の了解だった天智と天武の関係をうやむやにしたまま時が流れて、実際のところが伝わらなかったような感じだ。
 ところで天皇の名前というのは、死後につけられた諡号(しごう)で、生前にそんな名前で呼ばれたことは一度もない。乱暴に言ってしまえば戒名のようなものだ。だから、もしタイムトリップして天智天皇や天武天皇に会うことができたとして、天智や天武と呼ばれても本人は何のことかさっぱり分からない。
「おくりな」には、漢風諡号と和風諡号(国風諡号)があって、一般的な天皇名になっているのは漢風諡号の方だ。和風諡号は持統天皇から始まったという説があるけど、はっきりはしていない。持統天皇は「大倭根子天之広野日女(おおやまとねこあめのひろのひめ)」というのだけど、こちらはほとんど一般的な馴染みはない。
 神武天皇から元正天皇までの漢風諡号は、淡海三船(おうみのみふね)という人が全部つけた。奈良時代後期の文人で、大友皇子の曽孫に当たる。
 おくりなによってその天皇がどんな人物だったのかを研究している人たちもいる。森鴎外も研究していた。
 それによると、天智を暴君だった中国の殷の紂王に、天武を殷を滅ぼした周の武王になぞらえたのではないかと言っている。
 天智というのは、紂王が武王に負けて自害するとき身につけていた天智玉のことで、天智というのはすわなち暴君を意味するのだとか。
 天智天皇は天武天皇に暗殺されたという説がある。「扶桑略記」にそれをにおわせる記述がある。少なくとも、淡海三船はそのことを意識してつけたのだろう。
 天武天皇の死後、奥さんだった持統天皇は天武系を排除して天智系に天皇の血筋を戻そうとしてかなり無理なことをした。
 おくりなの持統というのは、継体持統から来ているとされている。継体というのは天皇を継ぐことで、要するに天皇家の系統を持続させたということだろう。
 こういうことから考えると、天武天皇というのは天皇になれないほど部外者ではなく、正当な血筋とは言えないところに位置する人物だったのではないかと考えられる。
 それぞれいろんな人がいろんな説を唱えているけど、決定打はないようだ。それぞれ自分こそ正しいと思っている。「天皇記(てんのうき)」でも見つからない限り、真相は分からずじまいだろう。御陵の発掘が許可されればものすごくたくさんのことが分かるに違いないけど、その可能性は今のところほとんどなさそうだ。

 天武天皇が天智天皇を暗殺したという説はひとまず置いておいて、「日本書紀」によると、先が長くないと悟った天智天皇は、弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に天皇を譲ると伝えた。しかし、それを罠だと思った大海人皇子は申し出を辞退して、自分は出家するといい、身の回りの数人だけ連れて、吉野の山に逃げるように去った。
 翌年、天智天皇死去。このあと大友皇子が天皇に即位したのかしなかったのかは分かっていない。
 大海人皇子も、どこまで本気で出家したのか分からない。天智天皇死去から壬申の乱が始まるまで約半年。その間に大海人皇子は数万の兵を集めて、大友皇子軍に勝利することになる。
 分からないといえば、どうして尾張氏をはじめとして、尾張、美濃、伊勢の豪族たちは大海人皇子側についたのかという点だ。
 出家してまったく兵力を持たない大海人皇子と、天智天皇の息子・大友皇子という図式で考えると、天皇家の側がどう考えても官軍で、大海人皇子は賊軍だ。賊軍に味方して負けたらただでは済まない。尾張氏にはどんな大義名分とメリットがあったのだろう。
 白村江の戦いで負けて、中央集権を進めようとしていた天智天皇に対して地方の豪族が不満を抱いていたからという説があるけど、それを言うならのちの天武天皇はより強力な中央集権制を推し進めて、地方豪族の立場を弱くしていった。政治面では、百済につくか、新羅につくかという対立は確かにあった。天智・百済系と天武・新羅系の戦いだったといえばそうなのかもしれない。
 大海人皇子がどの時点で戦いを決意していたのかは分からない。ただ、正当防衛というには、大友皇子に対してあまりにも先手、先手を打ちすぎている感がある。
 最初の段階で、天智のお墓を作るという名目で大友皇子はたくさんの兵隊を集めたとされている。実際のところは分からない。大海人皇子はそのことを伝え聞いて、戦う決意をしたのだという。けど、本当に出家して天皇になる気がなかったのなら、まだ攻められてもいない段階で対抗手段を講じるというのも変な話だ。本気で仏門に入ったというなら、抵抗せずに殺されているはずだし、そもそも出家さえしてなかったのではないか。

 吉野を脱した大海人皇子一行は、伊賀を越えて3日後に桑名郡家に到着している。
 供の数は数十人程度だったとしても、奈良の山奥である吉野から、伊賀の山を越えて三重県の桑名まで3日というのはいかにも早い。一行の中にはのちに持統天皇となる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)も加わっている。お付きの侍女などもいただろう。不眠不休の強行軍だったに違いない。
 とにかく大海人皇子の行動は素早かった。翌日には、鵜野讃良皇女を桑名に置いて、自らは美濃に向かっている。
 しかし、何故、鵜野讃良皇女を一緒に連れていったのかもよく分からない。他にも奥さんは何人もいるのに、鵜野讃良皇女だけが特別だったのかどうか。
 このとき、鵜野讃良皇女は桑名に70日ほど滞在したと伝えられている。その跡地に建てられたのが北桑名神社というのだけど、とりあえずその話は後回しにする。
 尾張氏は2万の大軍を引き連れてはせ参じた。大海人皇子が挙兵したと聞いた大友近江軍は、それだけで恐れをなしてかなりの人数が逃げたと言われている。尾張氏はそれだけ恐れられていたということだろうか。
 あらかじめ美濃に派兵していた家臣たちによって不破の関を封鎖することに成功した。これで大友軍は東国との連絡が取れなくなり、兵は近江の近辺でかき集めるしかなくなった。吉備や九州方面にも助けを求めたものの、それも先回りした大海人皇子側によって阻止されてしまう。
 態勢は整ったということで、大海人軍は軍勢を二つに分けて、大和と近江の二方面から攻め込んだ。
 当初は一進一退だったのが、途中から近江軍は総崩れとなり、最後は瀬田橋の戦いで勝敗は決した。大友皇子は近江宮で自害して、壬申の乱は集結した。天智天皇の死から7ヶ月後のことだ。
 翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に遷都して、即位した。
 それ以降のことに関しては、いずれどこかで書くこともあるだろう。今回は桑名の足跡について書くにとどめたい。といいつつ、すでに大きく脱線してしまっている。

桑名神社3-2

 大海人が立ち寄り、鵜野讃良皇女が滞在したとされる桑名郡家がどこにあったのかは、分かっていない。
 郡家というのは地方の役所みたいなもので、多くは有力豪族が管理していた。官公の宿泊所のようなものも兼ねていたのだろう。
 本願寺がある本願寺村がそうだったのではないかという説もあるけど、当時このあたりはまだ海だったんじゃないか。
 その北に、あとから出てくる天武天皇社もあるけど、これも本来のゆかりの地とは思えない。
 北桑名神社は、鵜野讃良皇女が宝物を収めていた倉があったところに建てられたとされる。それが少し東の宝殿町だったという話も、ちょっと信じられない。とにかく海岸線は今よりもずっと内陸だったはずで、今の桑名市街地にある跡地はその通り信じるわけにはいかない。
 いろんな史跡は、駅西だったのではないか。尾野神社は歴史のある式内社だし、古墳もこちら側に集中している。あるいは、もっと北かもしれない。
 江戸時代には三崎神明社とも呼ばれていたといい、明治41年に式内社の佐乃富神社、中臣神社、太一丸神明社などを合祀して、北桑名総社・北桑名神社となった。
 紆余曲折の歴史があり、いろんな神社を合祀したりしてるから、祭神が多い。
 スサノオや持統天皇、応神天皇や天児屋命(あめのこやねのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、泣澤女神(なきさわめのかみ)、倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)、火産靈神(ほむすびのかみ)、高水上命(たかみなかみのみこと)と多様で、馴染みのない神もいる。
 持統天皇とは直接関係ない神社のようにも思える。どこかで持統天皇の足跡を付け加えただけのような気もする。それもだいぶ後世になってから。

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 桜だと思うけど、かなりの老木だ。咲いている時期に訪れていたら、ここの印象も違ったものになったかもしれない。
 神社は移動しているから、この場所自体に特別なものは感じられない。大通りから入った住宅地の中に、やや居心地が悪そうに建っている。
 鳥居をくぐってすぐ、参道は直角に曲がっているあたりにも、無理矢理この一角に押し込めてしまったような印象を受ける。
 本殿は昭和44年に再建されたものだそうだ。

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 本殿横に、新しい鳥居と赤い社が建っている。
 八天宮(火産靈神)、稲荷大明神(宇迦御魂神)、金比羅宮(大物主神)、天神社(菅原道真)、船魂社(神功皇后)とある。
 このあたりをみると、神仏習合の歴史も感じられる。

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 道沿いではあるけど、境内の中に地蔵堂まである。
 この神社は大変な寄り合い所帯だ。

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 桑名行きを決めた理由の何割かに、この天武天皇社を訪れるためというのがあった。
 大津へ行って弘文天皇陵や天智天皇関係と縁ができて、そこから興味が広がり、壬申の乱にとりつかれもした。その流れで、天武天皇ゆかりの地も訪れたいと思ったのだ。
 すべての天皇は御陵に葬られているという原則はあるけど、神社に祀られている天皇というのは意外と少ない。天智天皇を祀った近江神宮も、桓武天皇を祀った平安神宮も、明治に建てられたものだ。明治天皇が祀られている明治神宮も大正時代だし、八幡宮の応神天皇は例外として、基本的に天皇を神社で祀るという発想は昔はなかったようだ。
 天武天王社も、明治天皇がこの地を訪れたとき、大海人皇子の故事を聞いて、それならここにそういう神社を創建すべきだということで建てられたものだ。
 天武天皇を主祭神とする神社は全国でここだけだという。
 昔は新屋敷にあって、そこを武家屋敷とするということで、1635年に鍋屋町の南に移され、更に鍋屋町北の現在地に移されてきた。

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 北桑名神社と比べると、こちらの方が境内の雰囲気はある。古い神社の空気感をたたえていて、なかなかいい感じだ。個人的に好きな神社と言える。

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 社殿の形式はなんとも言えない。あまり見ない形だ。民家のようでもあり、そうでもない。
 すごく古くはないにしても、戦後のものには見えない。
 祭神は天武天皇と、持統天皇だ。
 天武と持統は同じ御陵に入っている。天武亡き後、遺志を継いで国作りを進めたということで、おしどり夫婦のように言われる二人だけど、果たしてそうだっただろうか。
 天武天皇が死去したとき、二人の子供である草壁皇子はすでに24歳だったにもかかわらず、皇位を継がせていない。これは何故だったのか。二人の間に男子は草壁ただ一人だった。
 鵜野讃良皇女は、自ら権力を握って政治を行い、姉・大田皇女の皇子・大津皇子を謀反の疑いをかけて殺した。
 このあと、息子の草壁を皇太子にしてたものの、草壁皇子は3年後に病死にしてしまう。そして、自ら即位した。
 順番でいけば、天武天皇の長男である高市皇子が即位するのが自然だ。それを高市皇子は断っている。壬申の乱のときの事情を知っていて、身の危険を感じて辞退とも言われている。
 しかし、持統天皇は天武系に天皇の流れがいってしまうことを恐れ、自分のところで流れを戻したい思っていたフシがある。結局、草壁皇子の子供で、自分の直系の孫になる軽皇子を15歳で皇太子にして、譲位した。これが文武天皇だ。
 この先も、母親の元明天皇が即位したり、奥さんの元正天皇がつないだり、いろいろ複雑な経緯を辿るのだけど、それはまた別の話だ。
 天武、持統の両天皇によって律令制は完成に近づき、中央集権制と天皇の権威は確立されていった。
 伊勢神宮の式年遷宮など、この時代から始まった古代の制度というのもけっこうあって、壬申の乱というのは、日本史の中で一つの大きなターニングポイントとなったことにあらためて気づかされる。
「日本書紀」の編さんも、天武の命で始められたものだから、私たちが知る日本史というのは、天武以降に書かれたものという言い方もできる。
 実際に「日本書紀」が完成したのは元明天皇の時代の720年だから、持統王朝と藤原不比等によって作られた日本史と見るべきか。
 このあたりについても、また機会があれば書きたいと思う。

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 古い狛犬も気になったのだけど、それより狛犬の股の間でもぞもぞしているカラスに目がいった。
 中でごそごそしていたから、ここに巣でも作っていたのかもしれない。こちらを警戒しつつ、狛犬の中から離れようとしなかった。

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 天武天皇とお稲荷さんはあまり関係ないと思うけど、どこか別のところにあったものを一緒にしたのだろうか。

 桑名の神社特集は、とりあえず今回で一区切りとなる。駅西で寄ったところもあったのだけど、それはまた駅西エリアを紹介するときにでも書くことにする。
 しかし、まだ安心するのは早い。終わったのは神社だけだ。寺はまだ出てきていない。当然、寺もたくさん回ってきたから、次は桑名の寺特集ということになる。
 桑名の神社仏閣シリーズはまだ終わらないのであった。
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コメント
非公開コメント

北桑名神社北桑名総社は、美濃街道沿いに建てられており、街道に面して拝殿を建てると北向きになってしまうので、あのような屈折した建て方になったのではないでしょうか?

横にある地蔵堂もしかりでしょうね!

今は総門が再建され、また様相が変わりましたよ!

2014-04-06 21:52 | from 風神雷神 | Edit

ちょっと気になる方角

>風神雷神さん

 神社は後年、場所を移されたり、建て替えられたりで、必ずしも当時のままというわけではないんですよね。
 土地の事情でもともと方角がずれてたりということもあったのだろうけど。
 北桑名神社も様変わりしんですね。
 何にしても、天武天皇や持統天皇の足跡が残っているのは貴重だと思います。

2014-04-07 23:22 | from オオタ | Edit

北桑名神社北桑名総社の維持には、別章でお書きになられた諸戸家が関係あります。

永年、名誉総代を務められ、神社に土地(現在地ではなく離れた全く関係ない土地)を寄進されました。
その後、野放しになっていた土地を売却し、総門が再建されました。

直接ではありませんが、売却したお金だけで門が建ったので、実質諸戸家の一寄進となるでしょうね。

2014-04-08 01:41 | from 風神雷神 | Edit

もっと知ると

>風神雷神さん

 いやぁ、ホントお詳しいですね。
 私など通りすがりなので、撮ったところを帰ってからちらっと調べただけです。
 もっといろいろ知ると写真も違ってくる気がします。

2014-04-08 22:06 | from オオタ | Edit

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