本多忠勝は強いだけじゃなく桑名の恩人でもある<桑名7回> - 現身日和 【うつせみびより】

本多忠勝は強いだけじゃなく桑名の恩人でもある<桑名7回>

本多忠勝の像




 桑名城を発展させて、今日の桑名の城下町の基礎を築いたのは誰か。戦国野郎や戦国お嬢なら百も承知かもしれないけど、一般的にはあまり有名ではないんじゃないか。三重県松阪市生まれの私でさえ行くまで桑名城といえば誰というはっきりしたイメージは持っていなかった。
 徳川家臣団最強の呼び声も高い徳川四天王のひとり、本多平八郎忠勝と聞けば、戦国にちょっと興味がある人なら知っているだろう。生涯で57度の戦に参加して一度も負けたことがなく、傷ひとつ負ったことさえないといわれた天下無双の槍使いだった。あまりにも強かったという伝説から、「戦国BASARA」では平八郎メカになっていた。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛したのは武田軍の小杉左近だった。
 忠勝は関ヶ原の合戦でも活躍して、そのあと、10万石で桑名入りした。
 桑名の歴史を遡ると、鎌倉時代初期の1186年に、幕府の命を受けた伊勢平氏の桑名三郎行綱が城館を築いたのが始まりとされている。
 戦国時代には、伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城と、3つの城があり、桑名三城と呼ばれていた。
 信長が伊勢桑名一帯を支配下に収めてからは、滝川一益が3つの城を任されることになる。一益は長島城を改修してそちらに移り、3城は家臣に守らせていたという。
 その後、秀吉時代には神戸、天野、服部など城主は頻繁に交代している。一時は徳川家臣の酒井忠次や石川数正も桑名城を守っていた。
 関ヶ原の前までは、氏家ト全の長男・氏家行広が2万2千石で城主をつとめていたものの、関ヶ原で西軍についたため没収され、それに代わって入城したのが本多忠勝だった。
 地方の一支城ながら東海道の要所に位置するということで、家康も重視していたのだろう。10万石はちょっとしたものだ。
 1601年。忠勝は東城があったところに本格的な天守を持った城郭を築き、同時に城下町を整備していった。徳川四天王のひとりでライバルの井伊直政も、家臣を動員して普請を手伝ったという。
 世の中が平和になると、忠勝のような人間は次第に活躍の場がなくなり、影が薄くなっていく。息子の忠政に家督を譲って、自分は隠居生活に入り、結局桑名で最期を迎えることになった。浄土寺に墓がある。
 3代忠刻(忠勝の孫)が家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と結婚しているから、千姫もしばらく桑名城に住んでいた。
 2代忠政が姫路藩に移封となり、一家が姫路に移っていったのは1617年のことだ。桑名城と姫路城にこんなつながりがあったとは知らなかった。
 代わって入ったのが松平定勝で、その後は松平家が代々継ぐことになる。
 1701年に桑名城下で大規模な火事が起こり、天守もこのとき消失してしまう。財政が厳しかったのか、時代的にもう必要ないと判断したのか、こののち天守が再建されることはなかった。
 松平家といえば、徳川の本家筋で、当然のことながら幕府側ということになる。幕末の頃は、松平容保の弟・松平定敬が藩主をつとめていたこともあり、戊辰戦争では完全に幕府側に組み込まれてしまった。
 松平定敬は初め京都所司代として京都で薩長軍と戦い、大政奉還ののちは、敗れた幕府軍とともに江戸に向かう。
 その頃藩主がいない桑名城では、薩長軍に降伏するか戦うかでモメにモメて、最後は鎮国守国神社のくじを引いて決めようということになり、抗戦と出たものの、家臣団が絶対反対と譲らず、最終的には城を明け渡すことになった。
 それで死者は出ずに済んだのだけど、城は焼き払われてしまう。天守の代わりに使っていた辰巳櫓(たつみやぐら)を焼くことで降伏の証とした。
 藩主の定敬はというと、流れながれて函館の五稜郭での戦いに参戦していた。土方歳三や榎本孝明とともに戦っていたのだろうか。
 それでも最後まで生き残って、降伏をしたあと、江戸時代は日光東照宮の宮司をしていたというから人の命運というのも分からない。
 51の櫓と46の多聞、4重6階の天守を持つ大城郭だった頃の面影は何も残っていない。水堀の一部が姿をとどめているのみとなっている。
 残っている建造物も少なく、了順寺に城門が移築されたり、壊された石垣が四日市築港の資材として使われたりしたくらいだった。



九華公園入り口

 桑名城跡は現在、九華公園(きゅうかこうえん)として整備され、一般開放されている。
 九華というのは二重の引っ掛けで、ひとつは九華と書いて「くはな」、「くわな」と読ませ、桑名の別名として使われていたこと、もうひとつは桑名城は揖斐川に面して扇を開いたような形から「扇城」と呼ばれていて、中国に九華扇という扇があり、扇城と九華で九華公園と名づけられたというわけだ。
 という説明を聞かないとどういう意味かよく分からないような名前だ。
 しばらく荒れていたものを、昭和3年(1928年)に松平定信没後100年を記念して公園として整備され、現在に至っている。
 松平定信については、鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)のところで書きたいと思う。



三の丸堀跡

 一番外側に三の丸堀があり、橋を渡って内側に二の丸堀がある。どちらもけっこう残っている。
 このあたりは駅前から外れたところで、官庁街でもないから、多くを残すことができたというのもあっただろう。
 戦前までは今の立教小学校あたりまで堀が残っていたようだ。南側は戦後に埋められてしまって残っていない。
 それにしても、流れがないのか水がかなり淀んでいる。地図を見ると揖斐川と細くつながっているようだけど、流入と排水はどういう処理をしているのだろう。堀川というより、ほとんど池に近い。もう少し水がきれいだと気持ちいいのだけど。



吉之丸堀

 堀をしっかり残している分、本丸周囲の陸地は小さく飛び地になっている。
 本丸周辺は、吉之丸堀という名前がついている。
 なかなかに攻めづらい構造の城だ。背面の川から攻められたらもろそうではある。



亀の甲羅干し

 カメの甲羅干し風景。
 カワウも参戦。



キンクロハジロ

 おいおい、6月なのに、今頃、キミ、こんなところにいていいのか。
 渡らなかったキンクロハジロがポツンと浮かんでいた。春に渡らなかったやつだろう。自分の意志で渡らないことにしたのか、怪我でもしていて渡れなかったのか。
 日本の暑い夏に耐えられるのだろうか。秋に仲間が渡ってくるまで、あと4ヶ月くらい孤独に耐えないといけない。



ハナショウブ祭り

 花菖蒲まつりが行われていた。約4000株が植えられているそうだ。
 桜とツツジの名所としてもそれなりに知られているらしい。



桑名城1-8

 せっかくなのでハナショウブも撮っておく。



大砲

 本丸があった南東角に、大砲が置かれている。もともとは辰巳櫓があった場所だ。
 どういういわれのものなのか、よく分からないそうだ。戊辰戦争のときに使われたものなら、そういう言い伝えが残っているだろうに。



桑名城跡石碑

 本丸跡入口に立つ桑名城跡の石碑。
 これは西側だったか。



本丸跡

 広場になっている部分が本丸跡ということになるだろう。
 右手に見えている鳥居が鎮国守国神社で、そこに天守があった。

 写真が思ったよりも多くて、神社関係がはみ出してしまった。一回では収まらなかったから、2回に分けることにする。
 次回は桑名城関連の神社編ということになる。
 つづく。

 鎮国守国神社でふたり力を合わせて桑名を守る
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