偉かったのは初代清六で六華苑は二代目清六の邸宅 <桑名2回> - 現身日和 【うつせみびより】

偉かったのは初代清六で六華苑は二代目清六の邸宅 <桑名2回>

六華苑1-1




 三重県桑名市の観光といえば七里の渡しであり、桑名宿なのだろうけど、それに先だって今回は六華苑(ろっかえん)を紹介することにしたい。
 ところで六華苑って何だろうというのが行く前の私の素朴な疑問だった。ジョサイア・コンドルが設計した洋館があることは下調べで分かっていた。まずはそれが見たいというのが最初にあったのだけど、その洋館の名前が六華苑というのではないらしいというので混乱した。
 六華苑とは別に、諸戸氏庭園(もろとしていえん)というのが隣にあって、そこは春と秋の季節限定の公開だという。それぞれ入場料が必要というから、同じものではないようだ。地図を詳しい表記がなくてよく分からない。今ひとつ両者の関係性が理解できないまま出向くことになった。
 両方行ってみて、帰ってから復習をして、ようやくどういうことか分かった。話は単純なようで意外と複雑で、行く前に理解できなかったのも無理はなかった。順序立てて説明するとこうだ。

 まず登場人物は4人いる。初代諸戸清六(もろとせいろく)と二人の息子、そしてジョサイア・コンドルだ。
 初代清六は、幕末に木曾岬町の庄屋の長男として生まれた。もともと家は裕福だったのだけど、父親が塩の取引に失敗して莫大な借金を作り、一家で各地を転々するはめになってしまう。
 しかし、この初代清六という人は、人並み外れた商才があった。父の跡を継いだ18歳の清六は、米取引や西南戦争の軍需物資調達などで利益を上げ、わずか3年ほどで千両以上あった借金を完済してしまう。幕末から維新にかけての混乱も味方した。
 もちろん、大変な努力家でもあった。寝る間も惜しんで働き、メシは熱いと食べるのに時間がかかるから冷めてから食べるべしだとか、仕事があるときはメシなど食ってる場合じゃないとか、威張っても一銭にもならないから人にはへりくだれとか、その人生訓は徹底している。
 そうして財をなして買ったのが、現在諸戸氏庭園と呼ばれる庭園付きの大邸宅だった。桑名藩の御用商人だった山田彦左衛門が隠居所として建てたものを買い取ったのが明治17年(1884年)のことだ。
 ここを拠点として、屋敷前の運河を利用して米などを関西や伊勢に運び、更に財産を殖やしていった。それだけではなく、田畑を開墾し、水道施設を作って市民に無料提供したり、植林をして山林王とも呼ばれた。
 さらには関東にまで進出する。最盛期には東京の恵比寿や渋谷などにあわせて30万坪の宅地を所有していたそうで、日本一の大地主と称されるまでになった。
 中央政界の大物や岩崎弥太郎にも接近して顔を売り、ジョサイア・コンドルとの縁もそのときにできたものだったと言われている。
 その清六が亡くなったのが明治39年。このときどういう事情と話し合いがあったのか、詳しいことは分からない。屋敷と土地を次男と四男で半分ずつ分けることになった。
 西半分の屋敷のある諸戸氏庭園を次男清太が相続し、東半分の敷地を四男の清吾が継いだ。四男の出来がよほどよかったのか、当時まだ早稲田の学生だったにもかかわらず呼び戻され、18歳で二代目清六を襲名して家業も引き継ぐことになる。
 長男や三男はどうなったのだろう。
 洋館があるのは東エリアで、こちらに邸宅を建てのは二代目清六だ。
 結婚して23歳になった二代目清六は、屋敷の設計をジョサイア・コンドルに依頼する。コンドルというのは国がイギリスから呼び寄せた国お抱えの建築家で、日本現代建築の父と呼ばれる人物だ。どういう経緯で依頼がいって、どうしてそれに応じたのか、そのあたりの詳しいいきさつはよく分からない。
 25歳で来日したコンドルは、67歳で死去するまでに70余りの建築物を設計したと言われている。このブログでも、旧古河庭園ニコライ堂岩崎邸などを紹介している。
 ほとんどが東京近辺の仕事だったコンドルが、どうして桑名からの依頼を受けたのか。コンドルこのとき59歳。もう晩年といっていいときだ。
 地方に現存するコンドル作品は、桑名の六華苑だけとなっている。
 ということで、つまりは、初代清六の屋敷を半分に割って、本宅があった方を受け継いだのが次男で現在諸戸氏庭園となっていて、二代目清六を襲名した四男がコンドルに依頼して建てたのが六華苑ということになる。六華苑というのは、洋館と日本家屋、庭園をあわせた全体を指す。
 諸戸氏庭園の方は季節限定公開ということもあって、両方はつながっていない。どちらを先に行くにしても、いったん外に出て、別の入口から入り直さなければいけない。何しろ広い邸宅だから、もう一方の入口まで歩いて5分以上かかる。
 諸戸氏庭園はあらためて紹介するとして、まずは六華苑から紹介していくことにしたい。それも1回では収まらなかったから前後半の2回になる。



コンドル設計の六華苑洋館

 なるほど、コンドルらしいと一目見て思った。どの建物もオリジナリティがあるけど、どれにも共通した雰囲気がある。
 岩崎邸は白く、ニコライ堂は白い本体にブルーのドーム屋根が乗っかっていた。これはそれらを組み合わせてアレンジしたものとも言える。けど、古河庭園のように黒い建物もあるから、コンドル建築は面白い。今はもうない鹿鳴館はどんな建物だったのだろう。
 明治の洋館建築の特徴として、洋館と和館のドッキングというのがある。岩崎邸もそうだった。ここのはがっちり組み合わされているのが特色となっている。和館と洋館の建築が同時進行だったというのもあるだろう。
 洋館部分はコンドル設計で明治44年(1911年)に着工して、大正2年(1913年)に完成した。和館は諸戸家お抱え大工の伊藤末次郎が棟梁を務め、一年早い大正元年(1912年)に出来上がっている。
 家族の生活の場はもっぱら和館の方で、洋館はお客をもてなすためのものだったようだ。
 その後、諸戸家は桑名市内に別邸を建ててそちらに生活の場所を移し、ここは戦中戦後に会社の事務所として使われていたという。
 平成2年(1990年)に、桑名市に寄贈されて、市が整備したあと、1993年から一般公開が始まった。
 建物は重要文化財に指定されている。



日本屋敷廊下

 玄関棟から入って、まずは和館の方を見て回ることにした。こちらもかなり広い。畳の部屋がつながっている。
 ちょっと面白いと思ったのは、板廊下と畳廊下が並んでいることだ。どういう意味があるのだろうと思ったら、板の方を家族が歩き、お客が来たときに畳廊下を歩いてもらうという趣向なんだそうだ。
 ここの家の人たちは、ただのお金持ちや成金ではない。なんというか、わざとらしくない庶民への思いやりみたいなものが感じられる。苦労をした初代の教えがよかったのだろう。
 桑名は河口にある街で、井戸を掘ると水に塩が混じっていて水事情が悪かった。そこで清六は私財で上水道を作り、桑名の各家庭に無料で水を分けていた。昭和の初期まで諸戸の上水が使用されていたそうだ。



古いガラス越しに見る庭

 当時の歪みのあるガラスを通して外を見ると、景色までも時間のフィルターをかけたようになる。
 古いガラス窓のうねうねした感じが好きだ。



六華苑和室

 障子も畳も当時のままではないだろう。
 それにしても、中は思いのほかシンプルだ。内装を必要以上に飾る趣味人ではなかったらしい。欄間なども凝ったものではない。
 あまりにも何も置かれていなくて、昔の暮らしを想像するのは難しい。もう少し小道具があった方がイメージが湧く。



和室から見る庭

 障子で切り取る庭の風景。今は新緑が美しい。一番いい季節は、やはり秋の紅葉だろうか。



六華苑蔵

 突き当たりに一番蔵の入口があった。
 中には接客用の調度品などを収納していたというけど、なんだか暗い雰囲気で牢屋を思わせた。蔵の中というのは暗くてけっこう怖いイメージもある。



六華苑蔵の外観

 外に出て見た蔵。ここの蔵は黒色をしている。白が普通なのか、黒は防火のための何かが塗ってあるのか、蔵を持ってないから知らない。



木製の流し台

 大正時代に、こんな水道の蛇口や流し台があるのは、一般的なことではなかったんじゃないだろうか。特にここは大都市ではなく地方の桑名だ。諸戸家がいち早く水道事業に着手したおかげで、近隣住民は早い時期に上水道の恩恵にあずかれたと思われる。
 井戸の水を汲むのと、蛇口をひねったら水が出るのとでは、家事全般の労力がまったく違ってくる。



六華苑洋館室内

 洋館エリアに移動した。玄関ホールを右に行けば和館で、左へ行けば洋館だから、中にいると棟を移っているという感覚はほとんどない。シームレスで和から洋への移動となる感じを、当時の家人たちはどう思っていたのだろう。とても斬新な感じがしたんじゃないだろうか。
 家具類は当時のものではなく、市がアンティークを調達して備え付けたものだそうだ。雰囲気を盛り上げる役には立っているけど、これ自体がありたいわけではない。
 洋館はいろいろ見学しているし、当時そのままの内装も体感している。それらと比べると、やはりどこか本物感がない。明治村の西郷邸とかの方がそれっぽい。
 横浜でもたくさん洋館を見て回ったし、鳩山兄弟が育った鳩山会館はよかった。



六華苑塔内部

 塔部分の一階はこんな感じになっている。
 塔は4階建てで、二階までしか公開されていない。三階、四階が非公開なのはちょっと残念だった。もともとコンドルの設計では三階建てだったのを、清六が揖斐川が見たいといってわざわざ四階建てに変更してもらっている。せっかくだから四階からの眺めも見てみたかった。



電気のスイッチ

 遊び心というかお洒落心のある電気のスイッチ。
 大正ロマンという言葉があるけど、私たちは大正時代に対するイメージを正確には持っていないのではないか。15年という短い時間の中でも、大正にしかなかった特色というのがあったはずだ。
 華やかな外国文化を猛スピードで取り込んだ明治と、近代化が進んで豊かになった昭和の間に挟まれた大正という時代は、一体どんなものだったのだろう。もう少し大正時代のあれこれに触れて、大正時代に対する感触を掴みたい。
 明治時代の洋館と大正時代のものとではどこか違っているのかどうか。



電球

 裸電球も、傘次第でレトロモダンな感じを受ける。今になってみるとこれはむしろ新しい。貧乏の象徴ではない。
 近年、灯りというものも見直されてきている。白くて明るければいいとされた蛍光灯一辺倒の時代は終わった。寒々しい蛍光灯から温かみのある電球への回帰というのは、反動的な必然だ。
 機能性とコスト重視で面白みのない建て売り住宅ばかりになってしまった今、もう一度明治の洋館デザインが見直されたもいい。

 六華苑前半はここまでとしたい。後半は、洋館の二階部分と庭園を紹介します。

 六華苑の和洋合体ぶりは明治の日本そのものを思わせる <桑名3回>
 諸戸氏庭園は入れないあがれない見てるだけのもどかしさ <桑名4回>
 諸戸氏庭園後半も外から見てるだけ状態が続く <桑名5回>

【アクセス】
 ・JR関西本線または近鉄名古屋線「桑名駅」下車。徒歩約25分。
 ・三交バスまたはKバス
 ・駐車場 無料

 ・六華苑 入苑料 310円
 ・開苑時間 9時-17時
 ・月曜日定休

 ・旧諸戸氏庭園 春と秋に一般公開 500円

 六華苑webサイト
 旧諸戸氏庭園webサイト
 
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コメント
非公開コメント

おはようございます。
心の魂が、落ち着きますね。

2009-06-12 09:04 | from とらさん | Edit

和洋合体はアリ

★とらさんさん

 こんばんは。

 日本家屋と洋館の合体というのは、ある意味日本人に一番向いている建築様式なのかもしれないと思いました。
 なんだかんだいっても畳の部屋や縁側は落ち着くし、でも洋風の生活様式の方が便利だし、それを上手く使い分けられればそれに越したことはないですね。

2009-06-12 23:34 | from オオタ | Edit

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