古渡城は東別院になりメ~テレにもなった - 現身日和 【うつせみびより】

古渡城は東別院になりメ~テレにもなった

東別院-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 昨日の西別院に続いて今日は東別院を紹介します。
 東別院というのは通称で、東本願寺名古屋別院といった方が混乱せずに済むかもしれない。正式名は、真宗大谷派名古屋別院ということになる。
 昨日も書いたように、京都で本願寺が二つに分かれて、東本願寺と西本願寺になった。うしろで糸を引いたのは徳川家康だった。
 もともと内部でいろいろな分裂や争いが続き、いったんは秀吉の仲介で収まったのが、秀吉の死後、後継者問題でモメて、一方に家康が肩入れをして、新しく別の本願寺を建てさせたのが東本願寺だ。
 西が本家で東が分家といったようなものではないようで、今は仲良くやっているとのことだ。
 名古屋においては、東別院の方が大きくてよく知られているというのも昨日書いた。東別院は地下鉄の駅名にもなってい。隣にはメ~テレがあるから、行ったことはなくても東別院がどこにあるかは知ってる人が多いんじゃないだろうか。東別院駅はメ~テレ前とも呼ばれている。西別院は知らない人が多いと思うけどどうだろう。

東別院-2

 この場所にはかつて、織田信秀(信長の父)の居城・古渡城(ふるわたりじょう)があった。
 築城は1534年と伝えられている。
 今川から奪い取った那古野城を息子の信長に譲り渡し、自分は古渡城に移った。
 1546年に、13歳になった信長はこの城で元服したと言われている。
 その後、信秀は末森城(今の城山八幡宮)を築城して移り、信長も清洲城に入城したことで、古渡城は廃城となった(1548年)
 1690年、尾張徳川二代目藩主の徳川光友が、古渡城跡地の1万坪を寺の敷地にするため寄進した。
 その地に、東本願寺第16代門主・一如が名古屋御坊を建てたのが東別院の始まりだ。
 1805年には、五代惣兵衛が再建に尽力し、1823年にも新たな本堂が建てられた。
 最盛期の本堂は名古屋城天守閣に匹敵するほど巨大なものだったという。
 明治には、名古屋本願寺になったり、名古屋管刹になったりしつつ、最終的にには名古屋別院となる(1876年)。

東別院-3

 三門を入って正面に本堂が建っている。境内は相当な広さだ。全体的な規模は縮小されたとはいえ、真宗大谷派の別院としては全国最大を誇っているという。
 昔の建物はほとんど全部が第二次大戦の空襲で焼かれてしまって残っていない。
 現在の本堂は、1962年(昭和37年)に再建が始まり、1966年に完成したものだ。
 そうえば、ここの本堂は南西向きに建てられている。浄土真宗のお寺は東向きというのは、必ずしもそうではないようだ。
 
東別院-4

 本堂の向かって右隣に建っているのは対面所という建物のようだ。
 ここで説法が行われたり、事務所のようなものが置かれているらしい。

東別院-5

 本堂近くから境内と三門を眺めたところ。
 三門も本堂から少し遅れて1968年(昭和43年)に再建された。
 明治時代にはこの広い敷地がいろいろと活用された。明治7年(1874年)には、名古屋博覧会会場にもなった。名古屋城から金鯱を降ろしてきて展示したり、名古屋の名産などが展示されたそうで、一ヶ月の予定が10日間延期されたというから、評判はよかったのだろう。
 愛知県庁の機関がここに移されたり、軍隊の演習に使用されたり、戦中は収容所として使われたこともあった。

東別院-6

 多宝塔か二重塔かと思ったら、納骨堂だった。

東別院-7

 古渡城址の石碑と説明板が立っている。
 城の遺構はほとんど残っていない。東北に少し城跡を思わせる部分があるそうだけど、そちらは見に行かなかった。
 別院新御殿の北庭だった場所が下茶屋公園(しもちゃやこうえん)として整備されている。そこも空襲で焼かれて、戦後になってから造ったものだから、当時のままというわけではない。
 信長の時代からわずか500年足らずの間にずいぶんいろんなことがあって、すべてが変わってしまった。那古野城も、清洲城も今は残っていない。あの時代に築かれた天守閣が残っているのは、このあたりで犬山城くらいだ。どこに城があったか分からなくなっている支城もたくさんある。

東別院-8

 明治天皇行在所旧址碑と、明治天皇名古屋大本営碑が建っている。
 明治天皇がこの地方を訪れたとき、東別院に滞在したそうだ。
 大本営というのは、明治23年(1890年)に陸軍と海軍が名古屋で軍事演習をしたときに、ここに大本営が設置されたということらしい。
 昭和8年(1933年)に、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づいて史蹟指定された。
 史蹟名勝天然紀念物保存法というのは、現在の文化財保護法の前身の法律で、大正8年に施行された。明治は古いものをどんどん破戒した時代で、そのまま開発を進めてしまうと歴史的なものが消えて分からなくなってしまうからということで、この法律が定められた。
 国宝保存法や重要美術品等ノ保存ニ関スル法律も、戦後になって文化財保護法に一本化されて現在に至っている。昔は国宝だったのに、今は重要文化財に格下げされたというものがちょくちょくあるけど、あれも法律の改正に伴うものだ。
 国宝、重文指定というのもなかなか難しい問題があって、ありがた迷惑だったりして、所有者にとっては悩ましいものらしい。

東別院-9

 鐘楼も見たところ新しいもののようだ。
 ただ、鐘は1692年鋳造の古いもので、名古屋市の文化財に指定されている。
 西別院の鐘楼と組み合わせれば立派なものになりそうだけど、それが実現することはまずないだろう。

東別院-10

 右側の別の門から出る。
 外から対面所を見たらちょっといい感じだったので撮ってみる。

東別院-11

 左手に見えているのは東別院会館というものだろうか。
 右はメ~テレの電波塔だ。外で張っていれば、矢野きよ実や宮地佑紀生に会えるかもしれない。
 メ~テレの新社屋も旧社屋も、もともとは東別院の敷地だったところで、最初は読売新聞が名古屋進出のときに東別院から買った土地だそうだ。
 昔からこのあたりを知っている人は、住宅パーク東別院を覚えているだろうか。

 東別院の他に名古屋を代表する大きな寺院としては、覚王山日泰寺、大須観音、八事山興正寺、建中寺などがある。
 建中寺以外はブログに紹介した。建中寺もだいぶ前に行って写真も撮ってきた。あとは書くだけだから、近いうちに登場すると思う。
 それ以外にもお寺はたくさんある。神社だけでなくお寺もちょくちょく巡っていきたい。
関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

https://utusemibiyori.com/tb.php/1442-935021f3