草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回> - 現身日和 【うつせみびより】

草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回>

熱田神宮境内の風景




 前回に続いて熱田神宮の第2回をお送りします。
 1回目は熱田神宮の御神体で、三種の神器の一つである草薙剣の謎について考えてみた。今回、その続きをもう少しやってみようと思う。



熱田神宮宝物館

 宝物館というから、ひょっとして三種の神器の草薙剣が見られるんじゃないかと期待した人がいたかもしれない。実は私もそうだ。でも、そんなわけはない。天皇ゆかりの神器であり、御神体でもあるのだから、国宝とは比較にならない貴重さだ。皇居にあるものも、皇位を継承した天皇でさえ見ることができないという。即位式では草薙剣が入っているとされる箱を受け取るだけなのだとか。中に何が入っているのか、それは誰も知らないのかもしれない。
 ただ、江戸時代に、熱田神宮の大宮司社家数人が盗み見たという記録が残っている。それによると、長さは80センチちょっとで、錆びてはおらず、ずんぐりとして全体的に白っぽかったらしい。
 それが鉄製なのか銅製なのか、専門家の間でも議論が分かれているようだけど、そもそもそれもおかしな話だ。ヤマトタケル伝説や熱田神宮創建は、伝承によると西暦100年代で、そんな時代に鉄製の剣など日本にあっただろうか。日本で剣が作られるようになったのは、せいぜい古墳時代に入ってからのはずで、時代的に大きなズレがある。
 日本より技術が進歩していた朝鮮半島や大陸ならすでに作られていただろう。だとすれば、ヤマタノオロチは朝鮮半島の集団か、もしくはそちらからの渡来系のことで、草薙剣は外国人から奪い取ったものということになるのか。
 江戸時代に盗み見たという話が本当かどうかは分からないし、それが本当に草薙剣だったと決まったわけでもないから、このあたりのことは確かめようがない。
 熱田神宮にはすでに草薙剣はないのではないかなどと、意地悪な見方をする人もいる。確かに、歴史上いろんなことがあって、その過程で失われたり、他のものとすり替わったり、作り直されたりなどということがあったとしてもおかしくはない。そのあたりの経緯については、このあと書きたい。

 熱田神宮は、皇室や将軍家、藩主などから寄進された4,000点以上のお宝を所蔵しているそうだ。
 宝物館にそれらがずらりと並べられているのかと思ったら、中は思いのほか狭く、全部で100点もないくらいだった。期待して初めて入ったから、けっこうがっかりしてしまった。順番に展示物を変えながら展示しているそうだ。
 入館料300円という時点で予感すべきだった。ドニチエコきっぷを使って250円で入れたし、一番見たかった南北朝時代に写された『日本書紀』の一部(重文指定)を見ることができたので、まずは満足することにしよう。
 刀剣が充実していて、剣ファンには好評らしいけど、私は刀剣関係は苦手なので、なるべくそちから目を背けつつ展示物を見て回った。撮影禁止なので、中の写真はない。



熱田神宮参道の露天

 特に祭りの日とかではなかったけど、この日はゴールデンウィーク中ということで、少しだけ露店が出ていた。普段はこういうのは出ていない。



熱田神宮二十五丁橋

 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)。
 名古屋最古の石造りの太鼓橋で、優雅な姿をしている。残念ながらこの上を歩いて渡ることはできない。
 昔から評判の石橋だったようで、「尾張名所図会」(1844年に前編刊行)にも載っている。
 板石を25枚並べて作ってあることから、この名が付けられた。



熱田神宮徹社

 徹社(とおすのやしろ)。とおるしゃ、と読むのかと思ったら違った。
 祭神は、天照大神の和魂。
 和魂(にぎたま)というのは、荒魂(あらみたま)に対する平和的な面を祀るもので、山宮で荒魂を祀り、里宮で和魂を祀ることが多い。
 荒魂というのは必ずしも荒っぽい面というわけではなく、顕著な面、つまり神の意志の顕れという意味だ。天変地異に代表されるように、それは人間側からすると荒っぽく映ったりもするから勘違いされやすい。



熱田神宮境内社

 南鳥居近くにいくつかの摂社、末社が集まっている。西門から入るとこのエリアは飛ばしてしまいがちなのだけど、重要なものもあるので、熱田神宮参拝の折りにはこちらも立ち寄ってみることをオススメしたい。



熱田神宮楠之御前社

 楠之御前社(くすのみまえしゃ)。
 祭神は、イザナギ(伊弉諾尊)、イザナミ(伊弉册尊)で、絵馬がけっこうかかっているところを見ると、なかなか人気のあるところらしい。
 神生みの夫婦の神様ということで、安産のご利益があるんだとか。
 垣の内側にクスノキが植えられている。そこから名前が来ているのか、逆に先に名前があってあとからクスノキが植えられたのかは分からない。



熱田神宮清雪門

 清雪門(せいせつもん)の前まで来たから、草薙剣の話をしたい。
 アマテラスが天孫降臨するニニギに、剣と玉と鏡の三種の神器を渡し、そのうち剣は熱田神宮に、鏡は伊勢神宮に祀られ、玉だけは天皇所有となったと、前回書いた。
 でもこれは、ちょっと考えてみると不思議な話だということに気づくはずだ。建前上、皇位継承に必要とされる三種の神器のうち、二つが外で祀られていて、天皇の手元には玉しかない。皇位継承のときはどうしていたのか? 答えは合理的なもので、レプリカを作っていた、というものだ。
 ただし、これはニセモノというのとは違う。たとえば神社などで勧請して全国に多くの神社を作るけど、あとから作ったものがニセモノかといえばそうじゃないのと同じ理屈だ。分霊のように分身を作ったというだけのことで、神道では無限に本体が分裂することができるという考え方がある。
 807年に編さんされた『古語拾遺』には、崇神天皇(すじんてんのう)が、あらたに天叢雲剣と鏡を作らせたとある。崇神天皇は第10代天皇で、紀元前100年前後の天皇ということになっているけど、その実在はよく分かっていない。
 それによると、ヤマタノオロチから奪ったオリジナルの剣を伊勢神宮に移し、レプリカを宮中にとどめおいたらしい。ということは、ヤマトタケルが伊勢神宮のヤマトヒメから借り受けたのがオリジナルの天叢雲剣で、のちに草薙剣と名前を変え、熱田神宮の御神体になり、天皇家所有の神剣はレプリカ天叢雲剣と言うべきかもしれない。
 ともかく、剣と鏡に関しては、それぞれ少なくとも二つずつ本物があったということになる。

 668年、新羅の僧(とされる)動行が、熱田神宮から草薙剣を盗み出すという事件が起きた。
 そのとき、本宮の北門だった清雪門を通ったことから不吉な門ということで二度と開けないようにしたとも、剣が戻ってきたときに二度と外に出ないようにするため閉ざされたともいわれ、以降、清雪門は開かずの門とされてきた。
 草薙剣を持ち去った動行だったけど、新羅へ渡ろうとしたところ、暴風雨で乗った船が難破して遭難し、あえなく浜に打ち上げられて捕まってしまったという。
 しかし、このエピソードには続きと裏がある。
 本来なら御神体である神剣を盗み出した外国の僧侶は、当然死罪ということになるはずが、そうはならなかった。捕まえてみたところ、修行を積んだ立派な僧ということが分かり、天智天皇の病気平癒祈願を行ったら天智天皇の病気が治って、許されたというのだ。おまけに、愛知県の知多市に、法海寺を建てることまで許可されている。かなり怪しい。
 その後、草薙剣のオリジナルが、天智天皇の所有となり、次の天武天皇のとき、天武が病気になって占ったところ、草薙剣が祟っていると出て、剣は熱田神宮に戻されることになる。それが686年のことだという。つまり、20年近くの間、オリジナル草薙剣は熱田になくて、宮中にあったことになる。
 これは普通に考えて、天智天皇が奪ったと考えるのが自然ではないだろうか。奪った僧を捕まえて剣を取り戻したら、当然すぐに熱田神宮に返されるべきだ。
 そもそも、新羅の僧だという動行が、熱田神宮の御神体である草薙剣を欲しがる理由もよく分からない。盗んで新羅に持ち去ろうとしたというけど、新羅国がそんなものを本当に必要としたかどうか。
 盗難事件があった668年は、天智天皇が即位した年に当たる。新羅の僧としたのは、白村江の戦いで新羅と戦い、百済系とされる天智天皇が命じたことを誤魔化すためではなかったか。まんまと盗み出すことに成功したから、動行に褒美として寺を与えたとも考えられる。
 この時代の前まで、三種の神器が天皇の皇位継承に必要不可欠なものではなかったのではないだろうか。
 のちに続く天皇システムとも呼べるものを作り上げたのは、天智天皇、天武天皇、持統天皇あたりからのことだ。その前は天皇ではなく大王(おおきみ)という称号だったとも言われている。
 大化の改新(乙巳の変)で、それまで横暴を極めていた蘇我入鹿を暗殺して、実権を握った天智天皇こと中大兄皇子だったわけだけど、実は蘇我家こそが大王家だったという説もある。天智天皇は天皇家を乗っ取ったのだと。そのための権威付けとして、神剣とされる草薙剣を必要としたのではなかったのか。
 鏡と玉を加えて三種の神器としたのは持統天皇のときからだったとも言われている。
 伊勢の神宮の式年遷宮も、大昔から行われているように思われているけど、実際は天武天皇が決めて、持統天皇の時代に第一回目が行われている(690年)。もしくは、伊勢の神宮に現在のような社殿を建てたのが持統天皇かもしれない。
 私たちは古代史を、『古事記』や『日本書紀』で考えるから、なんとなくそのあたりから歴史を考えがちだけど、『古事記』、『日本書紀』は最古の歴史書ではなく、現存している最古の歴史書に過ぎないことを忘れてはいけない。
 620年には、聖徳太子と蘇我馬子が編さんしたとされる『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)や、『国記』(こっき、くにつふみ)がある。
 これらは、645年の乙巳の変のとき、蘇我蝦夷の家にあって、家ごと焼かれてしまったとされている。『国記』だけは救い出されて天智天皇に渡されたという話もあるけど、今はどちらも残っていない。
 天皇家の系図や歴史書が蘇我氏の自宅にあったということは、蘇我氏が天皇家(大王家)だったという証拠ではないのか。焼けたにしても救い出されたにしても、天智天皇にとっては都合の悪い記録だとすれば、焼いてしまうのは当然のことだ。
 草薙剣がもともとは三種の神器ではなかったのではないかという証拠として、平安時代初期(806年頃)まで奉幣(ほうべい)がなかったということがある。
 奉幣というのは、天皇の命によって神社などにお金や物資を奉献することをいう。それがなかったということは、熱田神宮は天皇家と直接関係がなかった神社ということになるのではないか。
 しかし、平安時代に入ってから熱田神宮は突然出世する。822年はまだ従四位下だったのが、966年には正一位にまでなっている。
『延喜式』が完成した927年には名神大社となっていることから、それまで尾張氏の剣だったものが天皇家の神剣として格上げされて、御神体として祀っていた熱田神宮も大出世したとは考えられないだろうか。
『日本書紀』の編さんを命じたのは天武天皇で、そのとき草薙剣を神剣とする物語が作られたとしても、後世の人間には話の前後が分からない。どこかで混乱や矛盾もあるのだろうけど、私もよく分かっていない部分が多々ある。実際にどうだったのかは、今となっては知りようもない。
 天武天皇の病気が草薙剣の祟りだと書かれているのは『日本書紀』だ。これはどういうことだろう。正当な持ち主だというなら、祟られることはないだろう。もし祟ったのだとしても、あえて都合の悪いことを書いたのは何故か。
 深読みするなら、すでに『日本書紀』後半で、時代は奥さんの持統天皇に移っていて、持統天皇は天智天皇系に血筋を戻そうとしていたから、天武天皇をかばう必要がなくなったのかもしれない。
 天武系というのは後年、ずいぶん不遇な扱いを受けていることは確かで、天皇家の菩提寺にも弔われていないし、天武天皇を祀った神社というのも三重県の桑名に一社あるのみとなっている。あれだけ実績を上げた有能な天皇なのに、後年の扱いがよくないというのも何かあるのではないかと思わせる。

 三種の神器は、源平合戦のとき、壇ノ浦で水没して見つかっていないから失われたままになっていると言われる。
 源氏に追い詰められた平家と天皇家は、壇ノ浦の戦いのとき、二位尼が安徳天皇と草薙剣、玉(八尺瓊勾玉)を抱いて海に身を沈めたとされている。
 そのとき、どういうわけか鏡は船に残された。玉は、入れ物の箱ごとすぐに浮いてきたところを回収されて、鏡とともに京に戻ったということになっている。
 問題の剣は、海に沈んだままとうとう見つからなかった。ただしこれは、普通に考えるなら、宮中にあったレプリカ天叢雲剣の方だ。熱田神宮の草薙剣ではない。
 レプリカとはいえ、この頃までには三種の神器が持つ意味は定まっていたのだろう。源頼朝は、義経に対して三種の神器奪還を絶対命令として出したと言われている。けど、どうしても剣を見つけられなかった義経は焦った。もしこのとき、義経が三種の神器奪還に成功していたとしたら、その後の歴史は変わっていたかもしれない。頼朝はあそこまで義経を邪険にできなかったのではないか。けど、見つけられなかった義経に対して頼朝は激怒した。
 源平の間で暗躍していた後白河法皇も大捜索の命令を出している。こちらはこちらで天皇家の必需品というこで必死だっただろう。海女さんを大動員したり、僧に占わせたりと大騒ぎをして、結局見つけることができなかった。のちに神器なしで即位した後鳥羽天皇も探したけど見つからずじまいとなった。
 仕方なく剣は新しいものを作ったのだろう。その後、南北朝時代などのごたごたもあり、三種の神器もどうなったのか、ややうやむやになった部分もある。南朝が持っていたものを合併したとき北朝が取り返したけど、それは偽物だったという話だ。
 面白いといったら失礼だけど、こんなエピソードがある。
 空襲が激しくなり、敗戦濃厚となった1945年。御神体である草薙剣を疎開させようという話になった。飛騨国一宮の水無神社へ一時移すということが決まったものの、終戦となってその計画は中止となった。
 しかし、今度は上陸したアメリカの進駐軍が御神体を奪いに来るのではないかと恐れて、やっぱり水無神社へ移すことにした。このときは帝国陸軍が運んでいったという。
 アメリカ軍が草薙剣を欲しがるとは思えないのだけど、当時としては真剣に恐れたのだろう。このあたりにも日本とアメリカとの感覚的なズレがある。当時のアメリカ人が神社というのもについてどこまで理解していたか。
 8月21日に移された草薙剣は、どうやら大丈夫そうだということが分かって、9月19日に取り戻しに行っている。鬼畜英米というくらいだから、日本人もアメリカ人を正しく理解していなかった。
 草薙剣を一時預かりした飛騨一ノ宮の水無神社
 毎年5月4日に行われている酔笑人神事(えようどしんじ)という変わった祭りがある。夜暗くなってきた7時から、神職が半円になって高笑いをするという不思議な行事だ。
 天武天皇のところから戻ってきた剣を祝って始まったとされるもので、別名おほほ祭とも言う。剣が帰ってきて熱田神宮の人たちは嬉しくて笑いが止まらなかったらしい。

 このように、一つの剣をめぐって、様々な紆余曲折があり、現在に至っている。熱田神宮は本当に剣を持ってるのかどうかなんていう単純な話ではない。
 何も持ってないということはないはずだ。ただ、その剣の過去を辿っていって、どこまで辿り着けるかどうか。熱田神宮はどこまで真実を知っているのだろう。

熱田神宮南新宮社

 右手に見えているのが、熱田神宮で唯一朱塗り(丹塗り)の南新宮社(みなみしんぐうしゃ)だ。
 スサノオを祀っている。
 6月5日に、京都祇園祭と同じく疫病退散の祭りが行われている。



熱田神宮孫若御子神社

 あまり人も訪れないような奥深いところにひっそり建っている孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)。
 なんだか妙に雰囲気があると思ったら、ここも『延喜式』に載っている式内社だった。一説によると、名神大だったとも言われている。
 祭神は尾張氏の祖神とされる天火明命(あまのほあかりのみこと)。
 尾張氏との関係が深い熱田神宮だから、本来なら天火明命が主神となっていてもよかったのかもしれない。



熱田神宮日割御子神社

 こちらも式内社の日割御子神社(ひさきのみこじんじゃ)。
 祭神は、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。
 天火明命のお父さんで、アマテラス、もしくはスサノオの子供とされる。
 アマテラスに天孫降臨を命じられて断った神で、代わりに息子のニニギが天孫降臨した。

 第3回につづく。

 草薙剣があってもなくても熱田にはたくさんの神がいる <第三回>
 熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない <第一回>
 
【アクセス】
 ・地下鉄名城線「神宮西駅」下車。徒歩約5分。
 ・地下鉄名城線「伝馬町駅」下車。徒歩約6分。
 ・名鉄名古屋本線「神宮前駅」下車。徒歩約5分。
 ・JR東海道本線「熱田駅」下車。徒歩約12分。
 ・無料駐車場あり(400台分) 17時閉鎖(年末年始は使用不可)
  ・参拝時間 終日(無料)
  ・宝物館 300円 9時-16時半 最終水曜日定休(年末休館)
 
 熱田神宮webサイト
 
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