
PENTAX K10D+DA 16-45mm f4
王子バラ園の300メートルほど東の上条町に、和爾良神社(かにらじんじゃ)がある。
名東区の神社巡りで和示良神社を紹介したとき、春日井の和爾良神社についても少し触れた。
ここを訪れるのは二度目になる。2005年に近くの大竜院のしだれ桜を探している途中で迷い込んだことがあった。神社の前へ行ったら、そうだそうだ、ここだったと思い出した。
この神社は、朝宮町にある朝宮神社とセットで紹介すべきなのだけど、あちらへはまだ行っていないから、とりあえず和爾良神社について先に書いてしまう。和爾良神社は、もともと朝宮神社をこの地へ移してきたもので、話はやや入り組んでいる。
朝宮神社の創建は不明ながら、延喜式に和爾良神社として載っているから、平安時代の初期にはすでにあったのは確かだ。
鎌倉時代始めの1218年に、男阪孫九郎光善(おざかまごくろうみつよし)が、上条町の領主となってこの地に来て、荒れている和爾良神社を見て、現在の場所に移して再建したと伝えられている。
男阪光善は、木曾義仲の家臣・今井兼平の子孫なんだとか。
現在地に移したとき、加賀白山から白山神を合祀して、和爾良白山社としたらしい。なんでも、祖先の中原信濃守兼遠(今井兼平、樋口兼光の父)が木曾義仲とともに加賀白山に戦勝祈願をして平氏を破ったことから、白山神を守護神としてあがめていたのだとか。
ややこしいのはここからで、神社を移したというなら元あった場所は跡地になるはずなのに、そこにも神社は残った。元の場所にも、加賀白山を合祀して、朝宮白山宮としたという。
だから、移したというよりも分霊したということになるだろうか。
現在は、朝宮神社も、和爾良神社も、どちらも式内社を名乗っている。元々は同じ神社だったわけだから、間違いではない。ただし、一応、延喜式に載っている和爾良神社は、上条町の方ということになっているようだ。
なのだけど、尾張徳川家は、朝宮神社の方を大事にした。
尾張初代藩主の徳川義直は朝宮町によく鷹狩りに来て、近くに休憩所の朝宮御殿を建てているし、二代藩主・光友も社殿を造営したり、亡き母・貞松院の祈願所として、三ツ葉葵紋の使用を許可したりしている。
1642年に徳川源敬が修繕して、名前を朝宮神社と改めた。
前置きはこれくらいにして、そろそろ境内に入っていくことにしよう。

前回は桜の季節で、参道は桜並木だった。今はすっかり新緑になっている。

参道脇に小さな祠がある。どういうものか分からない。朱塗りだからお稲荷さんだろうか。
横には庚申と彫られた石がある。江戸時代に流行した庚申の祈念碑か。
庚申信仰というのは、中国から伝わった道教のもので、庚申の日に人の体の中にいる虫(三尸虫)が天の神に人間の悪事を報告にいくというので、その日は寝ないで夜通しお祈りするというものだ。のちに、朝まで騒いで酒を飲むための大義名分となったりもした。

境内はバタバタと慌ただしく落ち着かない雰囲気だった。というのも、小学生の軍団が境内で走り回って暴れていたからだ。
蕃塀(ばんべい)の前が自転車置き場になっている。
それがなかったとしても、深閑とした雰囲気からは遠い感じだった。社殿の背後は小さな森になっているものの、神聖な空気感はとどめていない。800年近くの歴史を重ねているとは思えないほどあっけらかんとしている。

小振りな拝殿は最近のもののようだ。江戸とか明治とかではない。昭和に入ってから建て直されたものだろう。
社殿の右手には子供用の遊具があり、ちびっこのたまり場になっている。
左隣が町の集会所で、人の出入りもあって、参拝客の私はよそ者として完全に浮いていた。
典型的な町内の神社といった趣で、式内社の由緒正しい神社とは思えない。
こういう賑やかな方が、現代の神社の有り様としては正しい姿と言えるかもしれないけど。

祭神は、阿太賀田須命(アタガタスノミコト)、建手和爾命(タケタワニノミコト)、伊弉册命(イザナギノミコト)となっている。
阿太賀田須命というのは、オオクニヌシの6世孫というのだけど、よく分からない。赤坂比古命と同一神という説もある。
阿太賀田須命を祀っている神社は地域に偏りがあって、福岡、奈良、愛知の春日井、新潟、群馬となっている。
建手和爾命というのは、名前からしても和爾氏(わにうじ)の祖神ということが分かる。
和爾氏の存在はあまりメジャーではないのだけど、古代においては蘇我氏、葛城氏と並ぶほどの有力な渡来系豪族で、応神から敏達天皇あたりにかけては娘を天皇に嫁がせる外戚氏族だったという。
奈良盆地北部を本拠地として、山城、近江から遠くは敦賀、伊豆まで勢力を伸ばしていたようだ。
尾張も一時勢力下に収めていたようで、その後、尾張氏との勢力争いに敗れたらしい。
和爾氏は、春日、柿本、小野、大宅、栗田など16系統に分かれたとも伝わっていて、その系列からは小野妹子、柿本人麻呂、小野道風などの有名人を輩出している。
本家の和爾氏は、春日氏となっていったようだ。
和爾氏を祀る神社が、天理の和爾座赤阪比古神社や大和郡山市の和爾下神社などに残っている。

本殿も新しいもので、ちょっとなぁんだと思ってしまう。
建物に関してはありがたみはあまりない。
江戸時代に、瀬戸の加藤小兵衛作が奉納したという陶製狛犬はどこにあったのだろう。本殿の前だろうか。それらしいものは見えなかった。

大きなクスノキが御神木となっていた。
これはなかなか立派なものだ。

隣り合わせに大光寺というお寺が建っている。
元々は朝宮神社の神宮寺で、1218年に和爾良神社と一緒にこの地に移されてきたものだそうだ。
尾張西国33番札所の第10番礼となっている。
小牧長久手の戦いのとき焼けて、その後再建されたらしい。
室町時代に造られた元三大師堂厨子というのが堂内にあるそうだけど、あまり気軽に入っていけるような雰囲気ではなかったので、外から写真を撮るだけにしておいた。

昔ある人が、大光寺にあった石を自宅に持ち帰ったところ、夜ごとにしくしく泣く声が庭から聞こえてきて、石に近づいてよく聞いてみると、大光寺へ帰りたい、帰りたいと泣いていて、あわてて元に戻したという話が伝わる夜泣石。左に見えている大きな石がそれだ。こんな大きな石はとても一人では持ち上げられないと思うけど。
右手に小野道風(おののとうふう)生誕地と彫られた石碑が建っている。
小野道風といえば、平安の三蹟として有名な人物で、春日井が誇る郷土の偉人だ。
松河戸にも生誕地とされるところがあって、そちらには小野道風記念館がある。ずっとそちらが本当と思っていて、こんなところにも伝承地があるのは知らなかった。こちらの方が本命という説も根強いらしい。
春日井の神社巡りもすっかり中断していたけど、ぼちぼち再開していこうと思っている。朝宮神社も一度行っておかないといけないし、春日井は古墳地帯でもあるから、そちらも同時進行していくことにしよう。
ブログの内容がどんどん渋くなっていっているけど大丈夫だろうか。
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