ヤマトタケルとミヤズヒメが隣り合わせに眠っている方がロマンチックだけど

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
熱田の古墳-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 古墳を写真に収めるのは難しい。地上レベルでは超広角レンズをもってしても一部しか写すことができず、古墳と説明しなければ何を撮ったのかさえ分からないくらいだ。
 現代の古墳はたいていがこんもり茂った雑木林のようになってしまっている。特に大きな前方後円墳などはそうだ。個人の趣味で空撮などできない。古墳を上から撮るためだけにヘリコプターをチャーターするなんてのは、重度の古墳マニアくらいなものだ。
 愛知県地方にもいくつかの大きな古墳が残っている。今日紹介するのは、東海地方最大といわれる断夫山古墳(だんぷさんこふん)だ。
 熱田神宮の北西500メートルほどにあり、古くからヤマトタケルの奥さんである宮簀媛(ミヤズヒメ)の墓ではないかとされてきた。しかし、発掘調査と最近の研究によって、6世紀前半に造られた尾張氏の墓だろうというのが定説になっている。
 話は少しややこしいから、順を追って説明した方がよさそうだ。

 前方後円墳というのは昔教科書に出てきた懐かしい言葉だという人が多いだろうと思う。日常生活で前方後円墳と口にしたり目にしたりする機会はめったにない。下手したら卒業後一度もその存在を思い出さずに終わってしまう可能性もある。
 しかし、この前方後円墳というやつは意外とあちこちに残されていて、特に関西の人たちにとっては馴染み深いはずだ。
 日本の時代区分は、紀元前10世紀中頃から3世紀中頃にかけてを弥生時代としている。
 邪馬台国の卑弥呼が女王だったのが200年前後のことだから、区分でいうと弥生時代後期となる。
 卑弥呼の墓ではないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が造られたのが3世紀中頃(後期とも)とされていて、このあたりが前方後円墳の最初ではないかと考えられている。
 古墳時代は、3世紀後半から7世紀末までで、前期、中期、後期では古墳の形が変わったり、全国的な広がりを見せたりする。
 最初は大和から始まり、大和王朝が成立していく中で広がりを見せていくことになる。大和王朝の支配が全国に及ぶことで、その地方でも大きな前方後円墳が造られるようになった。
 どうして突然、そんなに大きな墓が造られるようになったのか、何故あんな形をしているのか、はっきりしたことは分かっていない。権力の象徴といえばそうなのだろうけど、首長の生前に造られたのか、死後に造られたのかでも意味は違ってくる。かなりの労力と時間がかかったはずだから、その墓に葬られた首長は相当な権力者だったのは間違いない。
 畿内の古墳と北九州の古墳の違いなどについて書き出すとまた長くなってとりとめがなくなるから、今日のところはやめておいて話を先へ進めたい。
 古墳造りはその後、段々すたれていく。大きな前方後円墳は造られなくなり、方墳や円墳がしばらく造られたあと、6世紀末には全国的に前方後円墳は造られなくなった。8世紀頃まで少し造られて、古墳ブームはそこで終わりを告げる。
 高松塚古墳やキトラ古墳などが、古墳時代末期のものということになる。
 という古墳の復習を終えたところで、断夫山古墳についての話に移っていきたい。

熱田の古墳-2

 断夫山古墳は、南東の方に頭の部分がある。そちらには熱田神宮があるのだけど、やはり関係があるのだろうか。
 前方後円墳という名前の通り、円が後ろで、四角い方が前ということになる。誰が決めたんだ。普通の感覚だと丸い方が頭に思う。
 前方後円という言葉は、江戸時代の国学者・蒲生君平が初めで使ったのだそうだけど、もともとは丸い部分に墓があって、四角い方で儀式のようなことが行われていたらしい。ただ、のちに四角い部分にも埋葬されるようになったりして、結局のところよく分からない。いろんな人がいろんな説をとなえている。朝鮮半島との関係を指摘する人もいる。
 大和王朝成立には多数の渡来人が関わっているわけだし、突然こういうものが造られるようになった背景には何か事情なり影響なりがあったのだろうとは予想できる。前方後円墳という形は日本オリジナルのものとされているようだけど、似たようなものが朝鮮半島にもあったという話もある。

 最初に書いたように、断夫山古墳はヤマトタケルの奥さんミヤズヒメと長らく言い伝えられてきた。
 ヤマトタケルと熱田神宮の話は以前にも書いた。草薙剣を持って東征から帰ってきたヤマトタケルは、尾張の地でミヤズヒメと結婚し、あろうことか草薙剣を置いたまま伊吹山に荒ぶる神を退治にしに行って、逆に返り討ちにあって命を落としてしまう。
 その後、草薙剣を祀るために建てたのが熱田神宮とされている。ヤマトタケルの死は113年ということになっていて、2世紀初めといえば、まだ古墳は造られていない。
 ミヤズヒメが死後に断夫山古墳に葬られたというのも年代的に合わない。
 ただし、この断夫山古墳の隣にはヤマトタケルの墓とされてきた白鳥御陵がある。
 江戸時代の国学者で、『古事記』研究でも知られる本居宣長も、この地を訪れ、ヤマトタケルを思う歌を残しているから、少なくとも江戸時代までは、ここにヤマトタケルとミヤズヒメの墓が並んでいたと信じられてきたようだ。
 熱田神宮との関係を考えれば、自然な連想とも言えるし、実際に何らかの伝承の反映と考えられなくもない。そもそもヤマトタケル自体がいろんな人物のエピソードを寄せ集めて作られた架空のヒーロー像とも言われている。小碓命(おうすのみこと)だけがヤマトタケルではないかもしれない。
 断夫山古墳の名前は、ヤマトタケルと死別したあとミヤズヒメが再婚しなかったことから来ているという。
 熱田神宮の境外摂社に、火上姉子神社というのがあり、ここでミヤズヒメが祀られている。創建は195年と伝わっている。
 白鳥御陵がヤマトタケルの墓で、断夫山古墳はミヤズヒメの墓でいいじゃないかとも思うのだけど、実際のところそうもいかないようだ。
 造られたのは6世紀初頭ではないかとされている。前方後円墳としては後期のものだ。この時代に100メートルを超えるものはあまりない。
 全長151メートル、高さ16メートル。後円の直径は80メートルある。
 大和から始まった前方後円墳は、大和朝廷の象徴的なものだろうから、地方の豪族が許可なく勝手に造れたとは思えない。この時期、尾張も大和朝廷の支配下に入ったということだろう。
 有力なのは、尾張氏の首長だった尾張連草香(おわりのむらじくさか)とされている。
 娘を継体天皇に嫁がせたことで天皇の外戚となり、大和朝廷とも密接に結びついたのではないかと考えられている。
 ミヤズヒメも、尾張国造の乎止与命(オトヨノミコト)の娘だったことから、このあたりの伝説がごっちゃになってしまった可能性はある。
 現在の断夫山古墳は、周囲に空堀(周濠)がめぐらせてあるけど、これは戦後に整備されたもので元々の姿ではない。かつてはもっと広かったようだ。おそらく水も張られていたのではないか。
 古墳というと木々が生い茂っているというイメージだけど、これは長い年月放置されたからそうなってるだけで、本来はきれいに整地された丘だった。
 二段、または三段になっていて、周囲には円筒埴輪が並べられていたことが調査で分かっている。須恵器(すえき)とともに1,000個を超える円筒埴輪が見つかっている。
 丘の表面にはきれいに石(葺石)が敷き詰められていただろう。造りたての古墳を見たら、イメージとはかけ離れていて驚くに違いない。

熱田の古墳-3

 少し離れたところから見ても、全体像を撮ることはできない。実物を目にすると、その大きさにけっこう驚くと思う。
 とはいえ、大阪堺市にある仁徳天皇陵と伝えられる大仙古墳は486メートルだから、規模が違う。
 一つ付け加えておくこととして、当時熱田は海の近くだったということがある。伊勢湾岸は今よりもずっと内陸にあって、断夫山古墳は海岸線のそばに造られていた。
 尾張氏と海人一族(あまいちぞく)との関係はよく指摘されることで、今でも海部郡などに名を残している。
 大海人皇子こと天武天皇は、乳母が海部郷の大海氏の娘で、そこから名前がつけられている。その関係もあって、壬申の乱のときは尾張の軍勢が大海人皇子に味方したというのがあった。
 歴史はいろんなところでつながっている。

熱田の古墳-4

 断夫山古墳から南に500メートルほど行ったところに白鳥御陵がある。せっかくだから、こちらも訪れてみた。
 ここは断夫山古墳以上に荒れているというか、放置されている感が強い。あまりの荒れっぷりに笑ってしまったほどだ。

熱田の古墳-5

 御陵の隣はちょっとした広場になっていて、ベンチも置いてあるから公園のようになっていたのだろう。
 しかし、めったに訪れる人もいないようで、雑草が伸び放題に伸びている。人が足を踏み入れている感じがない。半分自然に帰っている。
 正面に見えている雑木林が白鳥御陵だ。全然形は分からない。
 ここもかなり気の毒なことになっている。公園整備や道路を敷いたり寺を建てたりする中で、あっちを削られ、こっちを壊され、もはや原形はとどめていない。前方後円墳だったと言われなければ気づかない。
 幅10メートルほどの周濠があったというけど、それも残っていない。
 全長74メートル、高さ7メートルほどだったとされている。

熱田の古墳-6

 いかに人が訪れていないかは、このタンポポの綿毛の群生でも分かる。ものすごいことになっている。せっかく自然に帰りかけているのに、足を踏み入れるのが申し訳ないくらいだった。

熱田の古墳-7

 どうやら私はアプローチを間違えていたらしい。西の堀川沿いのカフェ横から入っていくのが、正規のルートのようだ。こちらはちゃんと道も舗装されているし、荒れた様子もない。
 正面から見た様子も、御陵らしい体裁をしている。
 どうしてここがヤマトタケルの墓とされたのかはよく分からない。ヤマトタケルは、三重県亀山の能煩野(のぼの)で果てて、白鳥になって飛び立ったという伝説がある。
 その後、奈良県御所市の琴原(ことはら)、大阪府羽曳野市の志幾(しき)にもとどまったため、能煩野とあわせて3つの御陵が造られた。
 熱田には来ていないはずなのだけど、この地にも白鳥として舞い降りたという話があったらしい。残した奥さんのところに舞い戻るというのはある意味自然な考えではある。草薙剣もここに残していることだし、故郷へ戻る前に寄ったとしても不思議はないか。

熱田の古墳-8

 古墳がある方向を撮ってみたものの、何がどうなっているんだかさっぱり分からない。
「尾張名所図絵」によると、1837年の台風で木々がなぎ倒されて、石室が剥き出しになったとある。
 石室は全長3.7メートル、幅1.5メートル、深さ1.8メートルほどで、直刀や鉄鉾などが入っていたという。
 横穴式石室だったことから、やはり6世紀前半のもので、尾張氏の有力者の墓だろうということになっている。
 ただし、長い間、熱田にヤマトタケルとミヤズヒメの墓があると信じられてきたという事実の方が重要に思う。1000年以上の間、そういう言い伝えを信じるだけの根拠が何かあったはずだから。
 古墳や御陵の調査はもっと行われてもいい。何か都合が悪いものが出てくるからあえてしないようにしてるんじゃないかと考えたくもなる。

熱田の古墳-10

 本居宣長の歌碑。
「尾張熱田なる白鳥御陵にまうでて

 しきしまのやまとこひしみ白鳥の
 かけりいまししあとところけれ」

 本居宣長は私の故郷三重県松阪が生んだ自慢の偉人だ。
 江戸時代にはすでに『古事記』の原文を誰も読めなくなっていた。本居宣長は35年かけて解読して、『古事記伝』にまとめた。
 そんな人だから、ヤマトタケルの墓とされるこの地を訪れたときは感慨深かったことだろう。

熱田の古墳-9

 入口付近の様子。こちらから行っていれば、荒れ放題の公園も気にならなかったかもしれない。

熱田の古墳-11

 白鳥御陵の裏手に、白鳥山法持寺がある。
 830年頃、空海が熱田神宮を訪れたとき、ヤマトタケルを敬い、延命地蔵菩薩を彫って小祠を建てたのが始まりとされる寺だ。
 平安時代の空海が、白鳥御陵をヤマトタケルの墓と思っていたというなら、やはりそれは本当ではないのかと思いたくなる。寺伝自体がのちの世の作り話だといえばそうなのかもしれないけど。
 もとは、白鳥御陵の宝物を守り持つということで宝持寺と称していたという。
 松尾芭蕉も、「野ざらし紀行」のとき、熱田神宮とこの法持寺に立ち寄っている。そのときは、熱田神宮が荒れ果てていて、それでもやっぱり荘厳でいいものだと書いている。白鳥御陵も見たに違いない。

 飛鳥時代のことでも分からないことはたくさんあるのに、その前の古墳時代となると分かっていることの方が少ないくらいだ。それでも、その時代から今の時代まで古墳というものが残されていることは価値がある。たとえ手がかりは少なくても、その時代に思いを馳せることができる。
 それにしても、古墳というのは一般的に人気がない。興味がない人にとっては、神社以上に面白くない場所だ。これといった見所がないし、ご利益も期待できない。
 私は少し興味が出てきたから、これからちょっと本腰を入れて回ってみようと思っている。名古屋市内や近郊にそこそこ残っているから、折に触れて訪ねてみよう。
 いつか、箸墓古墳や大仙古墳も見に行きたい。
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