石垣と堀しか残ってないけど堀がいい駿府城跡<静岡シリーズ最終回>

城(Castle)
駿府城-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 静岡駅の表玄関、歩いて10分ほどのところに駿府城(すんぷじょう)の跡地がある。
 天守閣などの建物は何も残っていないものの、堀と石垣がかなり残り、往時の面影をとどめている。周囲は官公庁や学校が取り囲む一等地の場所に、これだけしっかり城跡を残した静岡の判断を称えたい。明治、大正、昭和と時代は移り変わっても、静岡は大御所様が作った駿府の町という誇りがあったのだろう。城郭は何も残っていないと聞いていてあまり期待していなかったけど、これだけ堀を残していたらそれだけで充分という気がした。本丸、二の丸の跡も、城跡公園として当時のスケールのまま整備されている。
 行ったのは静岡まつりが始まる前日だったから、4月2日のことだ。もうずいぶん前のような気がする。
 日本平と久能山東照宮についてはすでに紹介して、静岡シリーズは今日の駿府城で最終回となる。途中だいぶ飛んでしまったけど、今日で終わらせて気分的にもすっきりさせておきたい。桜の写真は、さすがにもう季節はずれとなった。

駿府城-2

 駿府城跡の見所はあまり多くない。城に興味があるとか、歴史が好きだとかいう人は放っておいても勝手に想像で楽しめるにしても、一般的に観光客を引きつけるものはほとんどない。
 上の写真は、二の丸巽櫓(たつみやぐら)と東御門で、いずれも平成に入ってから復元されたものだ。巽櫓は市制100年を記念して平成元年に、東御門は平成8年に再建された。両方で30億円かかったそうだ。
 一時、天守を再建するという運動が起こっていたようだけど、まったく進んでいないところをみると断念したのだろうか。
 巽櫓は二の丸東南の角にあり、辰巳の方角ということで巽櫓と呼ばれていた。西南には坤櫓(ひつじさるやぐら)もあったそうだけど、今は残っていない。
 巽櫓だけは有料で、城跡公園に入るだけなら無料だ。このときはもう閉まっていて、巽櫓に入ることはできなかった。中は展示室になっている。

駿府城-3

 誰の像かと思ったら、『東海道中膝栗毛』の、弥次さん喜多さんだった。
 なんでこんなところにと思ったら、作者の十返舎一九が静岡(府中)の生まれだったからという理由だった。弥次さん喜多さんも、作中で府中に泊まったことになっているんだとか。江戸に住む二人がお伊勢参りに行くときの珍道中のお話だ。

駿府城-4

 左が南多門櫓、真ん中が櫓門(一の門)で、右が高麗門(二の門)だと思う。

駿府城-5

 東御門二ノ門の高麗門。
 東西南北一つずつ入口はあるけど、やはりここから入るのが一番気分が出る。

駿府城-6

 東御門。
 人の大きさと比べてかなり立派なものだということが分かると思う。
 正確に復元したというから、外観は当時のものに近いんじゃないだろうか。
 家臣たちの主要な出入り口でもあり、戦闘仕様にもなっている。堅牢な造りで、鉄砲狭間や石落としなども備えられているのは、大坂方との戦を想定してのことだろう。
 この門は、1635年の失火で天守閣や巽櫓などとともに消失し、3年後に再建された。
 しかし、それも宝永大地震(1707年)や安政大地震(1854年)で倒壊してしまった。

駿府城-7

 本丸堀の一部が復元されている。ここは明治時代に、陸軍が歩兵連隊を置くために埋めてしまっていた。

駿府城-8

 公園はかなり広く、天守跡を探すのにちょっと手間取ったくらいだ。
 ちょうど花見シーズンで、花見客がいたり、翌日の静岡まつりに備えて慌ただしく準備が進められていた。それでなんだかザワザワして落ち着かない雰囲気だったけど、普段はもっと静かな市民の憩いの場なんだろうと思う。

駿府城-9

 家康の銅像発見。
 このあたりが天守閣が建っていたところのはずだ。近くに城跡の石碑を見たはずだけど、写真には撮っていない。
 家康はどうして駿河を自分の隠居の場所と決めたのか?
 一つには、自分が幼少期を過ごしたところというのもあっただろう。19歳までの12年間、今川家の人質として駿府で成長した。それは決して楽しいものではなかったに違いないけど、ここで培った忍耐が天下人にまで登り詰める原動力となったのだろうし、最後は故郷に帰りたいと思うのが人情かもしれない。生まれ故郷の岡崎では江戸から遠すぎる。
 温暖な気候や環境もお気に入りだったのだろうし、久能山というのもわりと早くから意識していた可能性がある。
 それから、風水というのも強く意識していたようだ。江戸城を作るときに利用して、一応の成功を見たという手応えがあったのだろう。
 東に青龍の巴川、西に白虎の東海道、北には玄武の龍爪山、南には朱雀の安倍川がある。駿河城のこの場所は、風水思想にのっとった街作りのためには最適の場所だったと思われる。大雨のために氾濫する安倍川は、その後大改修された。
 どうして駿河にしたのかと訊ねられた家康は、駿河は富士山がよく見えて、鷹狩りによい場所があって、ナスが名物で初ナスが美味しいからだと答えたというエピソードがある。たぶん作り話だろうけど、ここから初夢に見ると縁起がよいとされる一富士二鷹三茄子が来ているという説もある。 

 家康以前に、駿河の地を支配していたのは今川氏だった。室町時代、駿河守護だった今川氏がここに今川館を築いていた。ただ、城郭と呼べるようなものではなかったようだ。
 その後、武田信玄が駿河に攻め込み、その館は失われ、のちに武田を滅ぼした家康がこの地を支配下に収めた(1582年)。
 1585年から築城が始まり、段階的に工事が進められて、1586年には家康も浜松城から移ってきた。最終的な完成は1589年で、そのとき初めて天守が建てられたと考えられている。
 しかし翌1590年、北条氏が滅亡し、秀吉の命で家康は関東移封となってしまう。ようやく完成させた駿河城には、秀吉家臣の中村一氏が14万石で入城してきた。
 一説によると、駿府城があまりにも立派だったため、秀吉が嫉妬したからだという話もある。
 関ヶ原の戦いののちは、中村氏は米子に改昜となり、代わりに家康家臣の内藤信成が駿府城主となった。
 江戸幕府を開いたのが関ヶ原の3年後、1603年で、1605年には将軍職を息子の秀忠に譲って、家康は引退して大御所となった。しかし、これは表向きのことで、実質的な支配は依然として家康にあった。
 隠居所というよりも大御所政治をするために選んだのが駿府で、大がかりな改修工事と、城下町の整備を進められた。いわゆる天下普請というやつで、工事は急ピッチで進められることになる。
 1607年には主だった部分が完成し、家康が駿府に移ってきた。
 いまだ健在の大坂豊臣家に対する前線基地という意味合いもあったのだろう。1609年には名古屋城が同じく天下普請で築城されている。
 しかし、同年1607年12月、完成間際の駿府城から火が出て、天守や本丸御殿など、大部分が燃え落ちてしまう。大奥からの失火が原因だった。家康もあやうく難を逃れている。
 明けて正月から再建工事が始まり、8月には本丸御殿が完成したと伝わっている。まずは住むところが優先で、天守の完成は1610年だった。
 それにしても、駿府城の配置はちょっと変わっている。天守は普通、北の角などに建っているものなのに、駿府城は城内の中央付近にある。火事のあとの再建でこんなことになってしまったのかもしれない。
 1609年に、第十子の頼宣に駿府城主を譲り、家康は引退した。結局、1616年、74歳まで生きることになった。
 その後城がどうなったかといえば、1635年に、奥女中の燭台からの失火でまたもや全焼。すでに家康はなく、天守は再建されずじまいになってしまった。1615年の大坂の陣で豊臣家も滅び、敵はもういなくなったという安心感もあったのだろう。
 完成当時の天守は、金ピカでものすごく豪華だったというから、もう少し長く建っていたら、後世に史料なども残ったかもしれない。再建しようにも、詳しい資料がないので難しいという。

 1619年に頼宣が和歌山城主に移封されたあと、秀忠の二男・忠長が城主となる。
 長男の家光よりも出来がいいということで、家督争いになり、家光の乳母だった春日局が家康に直談判して、結局家光が三代将軍になったという、時代劇でよく見るあの弟だ。
 このあと、忠長は坂道を転がるように転落して、乱心を起こしたかどで捕まり、蟄居先の高崎城で自刃して果てた。
 以降、しばらく城主不在となり、駿府城は幕府直轄となった。
 明治の大政奉還で慶喜の養嗣子である家達が城主になるも、廃藩置県で城はもう無用の長物となってしまった。駿府も静岡に改名された。
 明治22年に静岡市に払い下げられ、しばらくは陸軍などが使っていた。
 公園として整備されたのは戦後、昭和24年のことだ。

駿府城-10

 桜の季節だけに桜を撮る。

駿府城-11

 内堀の桜。
 せっかくだから、内堀を半周くらい歩いてみた。いい石垣も残っているし、堀自体の風情は名古屋城より上だ。

駿府城-12

 大手御門の跡。
 このあたりも当時の面影をとどめている部分だ。
 向こうに見えている高い建物は、静岡県庁で、最上階を無料解放しているから、登れば駿府城跡を見下ろしたり、静岡市内を一望できたりする。

駿府城-13

 あんなところに教会があるではないかと近づいていったら、市役所だった。なんで、このデザイン。
 昭和9年築というから、歴史的建造物と言ってもいい。

 大津巡りシリーズに続いて、静岡シリーズも終わった。
 そろそろ地元ネタに戻ろうと思う。ゴールデンウィークに、地下鉄に乗ってあちこちふらついてきたので、地下鉄シリーズを始めたい。
 ぼちぼち電車の旅も行きたいところではあるのだけど、しばらく西に向かうのは避けた方がよさそうだ。
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コメント
  • お願いがあります。
    2009/11/23 12:32
    はじめまして。静岡市出身のまじょ母さんです。
    先週、甥っ子の結婚式におよばれして、ひさびさに静岡に行って来ました。

    私のブログに載せるために駿府城のことを検索してこちらにうかがいました。静岡を離れてすでに40年・・・、息子たちに教えるにしてもとてもむずかしいのです。私の育った静岡を温かく紹介していただいとてもうれしく思いました。

    お願いと申しますのは、準備中のブログにオオタさんのブログの紹介をさせていただきたいことと、2枚目の二の丸のお写真のコピーと掲載をお許しいただきたいのです。

    お返事をお待ちしています。どうぞよろしくお願いします。 

    「珊瑚の島へ」 witch-mom
  • はい喜んで
    2009/11/23 20:06
    ★witch-momさん

     はじめまして。
     コメントありがとうございます。
     ブログ紹介と写真の件、了解です。
     お役に立てれば何よりですので、よろしければ自由にお使いください。

     witch-momさんは静岡のご出身なんですね。
     静岡と愛知は、近いようで遠い関係ですね。私もたまに行くくらいです。
     掛川の花鳥園が好きなので、そこはよく行くのですが。
     駿府城はよいところでした。
     この前の地震でお堀の石垣が崩れたそうなので、それをちょっと心配してました。
     前回は登呂遺跡に行けなかったので、また行きたいと思ってます。
  • ありがとうございました。
    2009/11/24 12:19
    お許しをいただけて準備しておいたブログを先ほどアップしました。
    まじりょこ静岡・・・1日目-1
    http://blog.goo.ne.jp/witch-mom/e/2e858ba401708bdc3b9320d4df0a40c4

    言われてみると、愛知と静岡って昔から希薄な関係ですね。
    自分が離れてみて感じるのに、
    静岡市民は内弁慶的な性格のような気がします。特に男!(笑)
    それは歴史的な背景もあるでしょうし、
    温暖で豊かな地域だから、生活面でも他の地域に頼らないでも済んでしまう・・・?

    オオタさんの観察眼を見習いたいものです。ほんとうにありがとうございました。
  • 静岡の県民性
    2009/11/25 00:05
    ★witch-momさん

     こんばんは。

     こちらこそ、いろいろ紹介していただいてありがとうございました。
     写真もお役に立ててよかったです。
     またブログの続きも読ませていただきますね。

     静岡は、そうなんですよね、独立地域ですからね。
     東海地方ではないし、中部地方というのもちょっと違う気がするし。
     静岡の人と話すと、みんな静岡が好きですよね。東京や名古屋なんかにも対抗意識みたいなものがないし。
     それと、やっぱり富士山が好きですよね。
     日本平から見た富士山は、絵に描いたようでありながら圧巻でした。
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