坂本歩きは寺社巡りから古い町並み散策へ <大津巡り20回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
坂本町並2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 滋賀院門跡(しがいんもんぜき)あたりをうろついていたときは、もう5時半くらいになっていただろうか。4月はじめのことで、そろそろ日没時間も近づき、石畳は西日に染まっていた。
 穴太積みの石垣と白壁に囲まれているあたりは、もう滋賀院門跡の敷地内だろう。このあたりまで来ると歩いている観光客の姿も少なく、寺町特有の静かな雰囲気が漂っている。
 とりあえず、門の前まで行ってみることにした。

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 門が開いている。入っていいのだろうかと迷いつつ、やめておいた。拝観は午後4時半までのはずだし、中から人の声も聞こえていたから、勝手に入っていくのはまずいと思って。
 延暦寺事務所、通用門と書かれているから、観光客と関係者と両方の通用門になっているのだろう。参拝者用の入口は更に中に入ったところにあるんじゃないかと思う。
 滋賀院門跡というから行く前はお寺の跡地か何かかと思っていたら違った。どういうところなのかを知ったのは、帰ってきて勉強したあとのことだった。
 江戸時代まで天台座主の里坊だったところで、もともとは天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を下賜されてここに移築し(1615年)、後水尾天皇から滋賀院の名を下賜された(1655年)。
 という説明を読んですぐに理解できた人は、かなりお寺関係に詳しい人だ。私は最初、どういうことかさっぱり理解できなかった。
 まずは用語の意味を知って、その上で話の流れを理解しないとよく分からないと思う。それはこういうことだ。
 まず、天台座主というのは、天台宗延暦寺派の総本山である比叡山延暦寺の貫主をいう。要するに一番のお偉いさんだ。
 当然ながら人徳があって人間としても僧侶としても優れた人がその役職につく。はずなのだけど、平安時代以降は、皇族の人間が出家してこの役につくことが多くなった。そういう人たちのことを法親王(ほっしんのう)という。
 それから、里坊というのは山坊に対する言葉で、60歳を過ぎた僧侶が暮らすために建てられた寺のことだ。延暦寺の僧はひとたび山に入ったら一生比叡の山で生きるのが決まりだったのだけど、比叡山の冬は厳しいからということで、修行を終えた老僧はもう許してあげようという思いやりから里坊が生まれた。日吉大社の参道に並んでいるのは、そういうお寺だ。
 中でも滋賀院門跡は、一番偉い天台座主の里坊ということで、総里坊、あるいは本坊と呼ばれていた。
 で、どうして門跡なのかということなのだけど、まず京都に法勝寺というお寺があって、これは歴代天皇の授戒の寺という格式の高い寺だった。
 授戒というのは、戒律を授けるということで、出家しようという人を僧侶として認める儀式をいう。僧としての心構えを教えて、僧として認めますという権限だ。
 天皇が息子などに天皇位を譲位すると上皇(じょうこう)になる。このとき出家すると、法皇(ほうおう)と呼ばれる。後白河法皇などがそうだ。天皇が出家するとき授戒する寺となれば、当然、位が高いということになる。
 その歴代天皇の授戒寺である法勝寺を、後陽成天皇から天海がもらった。天海といえば家康のブレーンであり、のちに天台座主にもなっている。
 その後、1655年に、後水尾天皇がこの寺に滋賀院という名を与えた。それ以降、中にあった御殿のことを滋賀院御殿と称するようになる。
 しかし、1878年(明治11年)に火事でこの建物が全焼してしまった。ということで、それからこの寺は、滋賀院門跡と呼ばれるようになったというわけだ。
 かなりまわりくどい説明になったけど、これでどうして門跡という名前になっているのかが分かったと思う。
 火事で焼失後は、比叡山無動寺谷法曼院から建物3棟を移築して再建した。
 約2万平方メートルという広大な敷地には、内仏殿、宸殿、書院、庫裏、土蔵などが建ち並び、庭園からは天海の廟所である慈眼堂を眺めることができる。
 一歩も中に入っていないのに、滋賀院門跡についてこんなに詳しい人間はそういないと思う。当然、中の写真は一枚もない。せめて外観の写真だけでも何枚か紹介しよう。

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 桜はかなり散りかけていた。ときおり、風に吹かれた桜の花びらが舞って、風情のあるいい風景だった。
 でもここはやはり秋の方がよさそうだ。

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 これが勅使門だろうか。
 5本筋壁があるところらしいから、たぶんここがそうなのだろう。
 勅使(ちょくし)というのは、天皇からの使いという意味だ。今はどうか知らないけど、昔は普通の人間が出入りできる門ではない。
 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)など、それぞれ呼び名があって、ややこしい。
 勅(ちょく)は、天皇の言葉や命令のことで、文書の場合は勅書(ちょくしょ)、口頭によるものを勅語(ちょくご)という。現在は、天皇「おことば」のように表現されるようになった。

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 坂本だけでなく、大津の町は琵琶湖のほとりということで、水の流れが至る所にあって、全般的に清浄な感じがある。
 寺社などでも、水の流れは外界と神域を分けるための装置として使っているし、日吉神社では主だった社殿のすべてを水の流れで囲っていた。
 水とともにある町は、空気の淀みが少なくなる。そういう気がするというだけではない、実質的な効果もあるんじゃないだろう。マイナスイオンとかそういうことでもあるかもしれない。

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 小さな神社は表から写真を撮っただけだった。
 これはどこの神社だったろう。大将軍神社だったか。
 大将軍というくらいだから名のある将軍を祀った神社かと思ったのだけど、詳しいことはよく分からなかった。

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 坂本名物、日吉そばとある。なかなか古い店構えで歴史がありそうだ。坂本には有名なそば店が2軒あって、これがその一つらしい。
 日吉そばというそばが名物なのか、日吉そばという店名なのか、今ひとつよく分からなかった。信州そばとかとは違うのか。

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 今度は北の路地を少し散策してみることにした。
 立派なしだれ桜が植えられていたのは薬樹院だったか。ちょうど見頃で、いいものを見せてもらった。

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 ここにも小さな神社があった。
 地図で見ると、市殿神社か。
 鳥居の額に屋根がついているというのは珍しい。

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 北の路地も、古い家屋が残り、落ち着いた雰囲気の町並みとなっている。
 時間があれば、このあたりの路地もくまなく歩いてみたかった。古い家がかなり残っていそうだ。

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 日本家屋の格子というのは、なんだか心惹かれるものがある。
 懐かしいという感情なのか、それだけではない特別な感覚なのか。
 ある程度日本人共通の感覚だろうに、現在の建築デザインに格子は活かされていない。格子はノスタルジックなものというのが共通認識なんだろうか。

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 白壁の土蔵も、こういう町並みにはつきものだ。
 滋賀は京都の隣だから、空襲の被害も少なかったのだろう。彦根城も助かっている。

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 昔ながらの家が続く。
 古いことは古いけど、きれいではある。古さを残しながら修繕して住んでいるのだろう。町並保存地区にはなってないだろうに。

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 奥へ進むと、観光地の雰囲気は消えて、普通の町の空気になる。特に歴史的な建造物があるわけでもないこんなところまで入っていく観光客はあまりいないだろう。私はこういうところが好きだから、入っていけるところは入っていきたい。路地には目がないのだ。

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 もう一つの有名そば店、鶴喜そばを発見。こちらは創業250年の老舗らしい。
 建物は1887年築ということで、登録有形文化財に指定されている。

 坂本町並み散策第2回はここまで。
 次回3回目が最終回で、大津シリーズも終わりが近い。
 つづく。
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