歴史とはつながった時間と人の思い <大津巡り16回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
日吉大社2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は日吉大社の第2回になるわけだけど、成り立ちについてもう一度整理しておこうと思う。
 天智天皇がこの地に大神神社から大己貴神を勧請して、西本宮を建てたとすれば、それは686年ということになる。
 元々日枝山の神だった大山咋神よりも大己貴神の方が格上の神様ということで、西本宮を大宮と称したという話もあるから、天智天皇創建説というのもあながち作り話とは言えないような気もする。
 そうではなく、最澄が日枝山に延暦寺の前身となる一乗止観院を建てたとき、守り神として日吉大社を創建したというなら、それは奈良時代末期の788年となる。
 いずれにしても、一度にこれほど大きな寺社となったわけではなく、当初はささやかな規模だったのだろう。大寺社として成長できたのは、天台宗の布教活動によるところが大きかった。
 672年に天智天皇が没し、壬申の乱で勝利した大海人皇子は、673年に都を飛鳥に戻している。つまり、大津の都は捨てられたのだから、いくら牛尾山(八王子山)が聖なる山だったとしても、日吉大社だけでここまで大きくなることはなかったのではないか。
 ただ、一つの転機として、平安遷都があった。都が平城京から長岡京、平安京へと移り、日吉大社は平安京から見て東北の鬼門に当たるということで、鬼門除けとして重要視されるようになる。
 最澄は、出家する前の名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、渡来系の子孫だった。先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)につながる登萬貴王(とまきおう)と言われており、3世紀初頭に日本に渡ってきたという。坂本の地は渡来人の多いところで、日枝山を選んだのもそういうことがあったからかもしれない。
 最澄は若い頃から才能を発揮したエリート僧侶だった。804年に、天台教を学ぶために、留学生として唐に派遣された。このとき空海も一緒に行っているのだけど、空海はまだそれほど目立つ存在ではなく、その他大勢の一人に過ぎなかった。
 しかし、帰国後、二人の立場は逆転する。密教をより深く学び取った空海に、短期間で呼び戻された最澄はかなわなくなり、教えを請うたものの最後は仲違いしてしまう。
 そのあたりの詳しいいきさつについては、またどこかで書くことがあるだろうから今回は端折って、先を急ぐ。
 帰国後、最澄は比叡の山に草庵を作り、そこから比叡山延暦寺の歴史は始まった。そのとき日吉大社がどこまで整備されていたのかは分からないけど、最澄が最初からここを天台宗の守り神にしようと決めていたのは確かのようだ。
 自らの教義の中に日吉大社の神を取り込み、天台宗を全国に広めるときにも日吉の神と共に民衆に訴えていくことになる。
 当時、仏教や密教はまだ一般大衆に受け入れられてはいなかった。奈良の大仏が建造されたのは752年で、あの大きさには度肝を抜かれただろうけど、仏教そのものはまだ浸透していない時代だ。外国から入って来た新しい宗教を人々はさほど必要としてなかったのだろう。日本には元々たくさんの神がいたからそれで充分だった。
 そこで、最澄たちは、仏と神は本来一緒のもので姿を変えて現れているだけだと、民衆を説得して回った。その神仏習合の理論が山王神信仰(さんのうしんしんこう)で、最澄はじめ、円仁、円珍、天海へと受け継がれ、江戸時代まで発展していくことになる。日吉大社と日光などの東照宮が似ているのは当然で、同じ系列のものだからだ。
 天台宗が広まっていくと同時に、全国各地に日吉神社や日枝神社が建てられるようになり、今でも3,000を超える日吉系の神社があると言われている。
 明治の神仏分離令が出されるまでは、日吉信仰と天台宗は同じものといっていいくらいのものだった。江戸幕府と強く結びついていたこともあり、朝廷の天照大神・伊勢神宮系と、幕府の日吉天台宗系という二大勢力となっていたという見方もできる。
 と、復習はこれくらにして、社殿巡りを再開しよう。

日吉大社2-2

 西本宮エリアは、主に西本宮、宇佐宮、白山宮の3つから成り立っている。
 西本宮の隣に宇佐宮があり、上の写真はその拝殿だ。どれが宇佐宮でどれが白山宮か、写真だけではよく分からない。どれもパッと見よく似ている。
 宇佐宮と白山宮の成立はやや遅く、平安時代はじめとされている。拝殿、本殿とも、1598年に再建されたもので、どちらの重文指定になっている。
 祭神は、田心姫(タゴリヒメ)というのだけど、よく分からない。
 宇佐神宮といえば八幡の神で、応神天皇、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后が祀られている。田心姫は、アマテラスとスサノオの子で、宗像三女神(むなかたさんじょじん)のひとり(湍津姫と市杵嶋姫)として祀られることはあっても、単独で祀られることは珍しい。どこからどういう経緯で勧請したのだろう。

日吉大社2-3

 宇佐宮の隣にいくつか社が並んでいる。
 宇佐若宮社、宇佐竈殿社、気比社あたりだと思うけど自信はない。

日吉大社2-4

 白山宮の本殿だったか、宇佐宮だったか、分からなくなってしまった。

日吉大社2-6

 こちらが白山宮だ、きっと。
 本殿は三間社流造ということで、これは日吉造ではない。再建されたのは同じ1598年なのに、どうしてこれだけ変えたのだろう。元からそうだったのか。客人社(まろうどしゃ)らしいから、そのせいかもしれない。
 加賀国の白山から菊理姫神を勧請して祀っている。天台宗は山岳信仰の密教だから、その関係だろう。

日吉大社2-7

 拝殿は宇佐宮も白山宮もよく似ている。

日吉大社2-8

 雰囲気のある石段。この神社のいいところは、無粋なものを極力排除して、できるだけ昔の姿そのままを見せようという心遣いが感じられるところだ。時代劇の撮影などにもよく使われるそうだけど、なるほどと思わせる。

日吉大社2-9

 木造の狛犬も安土桃山時代のものだろうか。寄木造だと思う。
 山王信仰は北斗七星を重視しているということで、狛犬は七つの尾を持っている。

日吉大社2-10

 救済地蔵と書かれた小さな地蔵堂があった。ここにも神仏習合の名残を見る。

日吉大社2-11

 白山宮を出てしばらく進むと、山王神輿(さんのうみこし)を格納した神輿庫がある。中には七基の古い神輿が保存展示されている。
 791年に、桓武天皇の命で大宮(西本宮)と二宮(東本宮)の神輿が造られたのが始まりとされている。
 その後、865年に客人社、十禅師社、三宮社、聖真子社、八王子社それぞれに対応する神輿が造られ、7基が揃った。
 ただし、それらは延暦寺焼き討ちのときにすべて消失してしまったという。現在あるのは安土桃山時代から江戸時代にかけて造られたものだそうだ。それでもすべて重文指定になっている。
 山王祭のときは7基すべてが出る。
 祭りといっても、3月からひと月半に渡って行われる20以上の神事だから、ワッショイ、ワッショイというのとは違うのだろうか。映像でも見たことがないから、どういうものか想像がつかない。

日吉大社2-12

 三宮宮遥拝所と、牛尾宮遥拝所がある。この階段をえっちらおっちら八王子山の山頂目指して30分ほど登っていったところに、日吉大社の始まりである三宮宮と牛尾宮があるらしい。らしいというのは、見ていないということだ。往復1時間近い山歩きをする気はなかった。
 崖っぷちに舞台造の社殿が建っているそうだから、見られるものなら見ておきたかった。みんなも、ここまではあまり行かないんじゃないかと思う。

日吉大社2-13

 日吉大社の中を歩きながら、小林秀雄は『無常ということ』の決定的な閃きを得たと書いている。
 それはこんなシーンを目にした瞬間だったかもしれない。ここには確かに神が在ると感覚的に信じることができる。人が感じる神々しさといったようなものがつまりは神そのものなのではないか。
 常に変わらないものはなく、しかし常なるものはあると小林秀雄は言った。日吉大社は長い歳月を経ても変わらずここに在るとも言えるし、変わり続けたからこそ今も存在しているという言い方もできる。
 確かなことは、私たちが時間と人によってつながっているということだ。古代から平安、戦国、江戸、昭和、現在にかけて、多くの人々が様々な思いでこの場所を訪れ歩いた。そして、歴史は未来へとつながっていく。大切なのは常なることであり、常ならざることだ。日吉大社を歩いてみれば、そのことが分かる。
 次回は東本宮を中心に紹介して最終回となる。
 つづく。
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