家康は日本を守護するために神となった <久能山東照宮3回> - 現身日和 【うつせみびより】

家康は日本を守護するために神となった <久能山東照宮3回>

久能山東照宮3-

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は久能山東照宮の3回目で最終回となる。思ったよりも見所があって写真も多くなった。最後は家康が眠る神廟(しんびょう)へ向かうことにしよう。
 写真は唐門から楼門を見たところだ。唐灯籠の頭もちらっと見えている。

久能山東照宮3-2

 本殿の屋根がちらりと顔をのぞかせている。神社の本殿は拝殿の背後にあって、こんなふうに隠れてしまっているところが多いのだけど、久能山東照宮は左右に回り込めるから、側面を見ることができる。

久能山東照宮3-4

 右側に回り込んだところ。彩色や彫刻、絵などの様子もよく分かる。
 ただ、権現造ゆえに、本殿の前部分は外から見ることができない。拝殿と本殿が一体化している。

久能山東照宮3-3

 これは左側。
 壁の絵も、社殿の塗り直しのときに着色し直されている。こういう部分も塗り直す前はかなり色あせてしまっていたようだ。オリジナルの色をどこまで再現できているのだろう。

久能山東照宮3-5

 社務所というのか、おみやげ物売り場というのか、札所というのか、神職の人が座っていた。お守りとかを売っているのだろう。
 この手のものにはまったく興味がないから、いつも素通りしてしまう。もう少し興味を持った方がいいのかもしれない。

久能山東照宮3-7

 社務所の横に門があり、ここから神廟へ向かうことになる。
 その向こうにももう一つ門が見えている。

久能山東照宮3-6

 これが廟門で、重文指定となっている。
 家康の廟所は本殿の裏手にある。神社は死の穢れ(ケガレ)を嫌うから、人の死を扱わない。だから、基本的に神社には人のお墓はない。
 家康の墓は東照宮の境内にあるには違いないのだけど、場所としては社殿のある部分とはっきり分けている。門を二つくぐり、石段を登って右に折れた先に神廟はある。

久能山東照宮3-8

 こちら側はだいぶ雰囲気が違っている。
 両側に並ぶ石燈篭は、大名家などが寄贈したものだそうだ。

久能山東照宮3-9

 廟所とはいえ、家康は神となっているということで、鳥居が建っている。

久能山東照宮3-10

 御廟所も重文指定となっている。
 宝塔が建っている下に家康の遺骸が埋葬されている。
 宝塔というのは珍しい形式で、他にあまり例がないという。
 久能山東照宮では、家康は吉田神道の方式で土葬されている。葬儀を任されたのが吉田兼右(よしだかねみぎ)の子で、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)だった。
 1616年に家康が死去すると、ケガレがつかないようにと、当日久能山に運ばれ、仮殿に埋葬して、家康は神となった。
 家康は遺言で、自分が死んだらいったん久能山に埋葬して、一周忌が過ぎたら日光に小堂を建てて勧請するようにと言っている。自分が神として祀られることで江戸や日本の守り神となるためだった。豪華な社殿を建てて自分を神としてあがめろなどとは一切言っていない。
 ではどうして久能山であり、日光だったのか。それは多くの人が指摘しているように、風水の思想によるものだろう。江戸の町そのものが風水思想による結界都市だったわけで、自分がその守り神になると決めた以上、何の根拠もなく墓所を決めるはずがない。
 久能山東照宮の社殿は南西を向いて建てられている。参拝者は北東を向いて拝むことになり、その直線上に富士山があり、そのまま進むと日光山へと辿り着く。
 一方、神廟は西を向いている。真っ直ぐ西に進むと、鳳来山東照宮があり、生まれ故郷の岡崎がある。更にその先には京都の南禅寺が建っている。
 鳳来寺は家康の母・於大の方(おだいのかた)が子宝に恵まれるようにと願い、家康を身ごもったということでのちに家光が鳳来山東照宮を造営した場所で、南禅寺は家康ブレーンの一人で埋葬にも関わった崇伝の寺だ。
 太陽の道というのを意識していたのかどうかまでは分からないけど、太陽は東から昇って西に沈むから、家康が神として再生するためには西から東へと逆に辿る必要があると考えたのではないか。
 久能山から富士(不死)を通り、日光山へ。日光は江戸から見てほぼ真北に当たる。北は不動の北極星がある方角だ。日光東照宮の社殿は、北斗七星と同じ配置で建てられている。
 現代からするとただの迷信のように思えるこれらのことも、当時は最新の科学であり、知恵でもあった。実際に効果があるかどうか以前に人々が信じていたということが重要なのだ。
 家康の墓は日光東照宮にあると思っている人が多いかもしれないけど、実際は久能山東照宮にある。日光へは神として勧請しただけで、遺骸そのものは移していない。一部は移したかもしれないけど、丸ごとではなかったはずだ。
 当時の常識で高貴な身分の土葬はとても珍しいものだった。将軍や貴族のほとんどは火葬で、土葬は庶民のものとされていた。吉田神道の形式にのっとって土葬にされた。以降、徳川家の将軍はこれに習ってすべて土葬されている。
 日本で火葬が始まったのは7世紀終わりくらいのこととされている。中国の影響で、唐帰りの道昭が最初に行わせたという。
 奈良時代には都の内部に墓を作ることは禁じられ、皇族もすべて郊外に墓を作った。すでに火葬も多くなっていたようで、平安時代になると火葬が流行し、鎌倉以降は武士階級も火葬が一般的なものとなっていった。
 ところで、家康は東照宮権現となっている。これは吉田神道の神の名ではない。
 一周忌を過ぎて、日光に移すとなったとき、梵舜を始めとした崇伝一派と、山王一実神道形式の天海とが対立することになる。吉田神道なら家康は大明神となっていたはずだった。梵舜は豊国神社の創建にも関わっていて、秀吉は大明神として祀られている。
 結果的には天海が論争で勝ち、家康は山王一実神道によって大権現として祀られることとなった。秀吉と同じでは都合が悪いというのもあったのだろう。東照というのは、天皇家の始祖である天照に対するもので、宮中から家康に対して贈られた神号だ。
 ここに家康の神格化が完成し、徳川家は天皇に匹敵する地位を確立したと言えるだろうか。

久能山東照宮3-11

 廟所に樹齢350年以上という大きな杉の木があり、金の成る木という説明書きが立っている。
 家康が家臣たちに金の成る木とは何だと思うかと訊ねて誰も答えなかったら、それは、万事程よき、慈悲深き、正直だと言ったというエピソードから来ている。
 結婚式の3つの袋のスピーチみたいな話だ。きっと家康はこういう話が好きだったのだろう。成功した中小企業の社長を思わせる。
 その話を聞いて感動した家康好きの家光が、ここに三本の杉を植えさせたというエピソードも残っている。

久能山東照宮3-12

 家康さんへの挨拶も終わったところで、ぼちぼち帰ることにする。これで主だったものはだいたい見たはずだ。
 帰りは写真らしい写真を少し撮ろうということで何枚か撮った。

久能山東照宮3-13

 若葉の緑と極彩色の社殿の組み合わせに惹かれるものがあった。
 流れた時間と、繰り返される自然の営みを思う。

久能山東照宮3-14

 お稲荷さんを帰りに見つけた。

久能山東照宮3-15

 入口近くの社務所。こちらには巫女さんがいた。
 左へ行くとロープウェイ乗り場で、後ろは展望が開けていて、眼下の駿河湾がよく見える。

 これで久能山東照宮編は終わりとなる。早く書かなくてはと思ってずっと心に引っかかっていたからホッとした。
 他に行っておくべき東照宮としては、岡崎の滝山東照宮と、群馬の世良田東照宮がある。 そのうち機会を見つけて行きたい。
 静岡シリーズはまだ駿府城編が残っている。一回に収まるかどうか、少し微妙なところだ。近いうちに書きたいとは思ってるけど、大津シリーズもあるし、先送りになってしまうかもしれない。
関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

https://utusemibiyori.com/tb.php/1413-350f469c