家康はこんなに派手好みじゃなかったはずだけど<久能山東照宮2回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
久能山東照宮楼門の先の鳥居

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 久能山東照宮の2回目は、楼門をくぐったところから再開となる。
 かつての東照宮は、神仏習合の寺社で、やや特殊な性格を持っていた。徳川家康を神として祀る神社でもあり、家康を埋葬する寺院でもあった。当時は神社と寺院が一体となっていることに何の違和感もなかったのだろう。今のように何が何でも分離していなければならないという発想は日本的ではないとも言える。明治政府の神仏分離令によって日本人の宗教観は歪められてしまったところがある。廃仏毀釈で失われた建物も多い。
 久能山東照宮にも明治初期まで高さ30メートルの五重塔があった。この写真でいうと、鳥居の向かって左側に建っていた。三代家光の造営ということで、豪華絢爛な五重塔だったという。今は跡だけが残っている。



楼門の裏側

 楼門を裏から見たところ。こちらから見てもきらびやかだ。手抜きはない。
 ちょっと小さく見づらいけど、金色の狛犬と獅子が写っている。



神厩

 神厩(しんきゅう)。
 馬は神の使いとされ、こういう神厩がある神社がけっこうある。日光東照宮や伊勢の神宮などでは本物の馬を飼っている。久能山はそこまではできなかったようで、馬の像で代用している。
 がしかし、これが左甚五郎の作という話があり、また本当かよと思ってしまう。何かというと左甚五郎の名前を出してきて、一体どれが本物なのか分からなくなる。眠り猫だって本当かどうか確証はないし、そもそも左甚五郎という天才彫り師が実在したかどうかも疑わしい。
 猿は馬の守り神とされていて、日光の有名な見ザル、言わザル、聞かザルの彫刻は、神厩の建物に施されている。



鼓楼

 鼓楼の装飾は、楼門のものとよく似ていて、セットになっている。
 これも、日光ほどド派手じゃない。
 本来は鐘を吊った鐘楼だったものを、明治の神仏分離令で太鼓に取り替えて、鼓楼とした。
 こういう苦肉の策で生き延びた建物も多かったけど、僧侶もたくさん神職に転職している。廃仏毀釈で苦難の道をたどった寺社や僧侶も少なくない。
 国が神道一本でいくと決める必要が本当にあったのかどうか。結局、天皇家も仏教を捨てる恰好になった。現在の皇室では仏教行事は一切行っていないはずだ。



唐門

 階段の上に唐門が見えてきた。ここを過ぎればいよいよ拝殿なのだけど、ここを通ることはできない。階段のところで通行止めになっている。
 日光も唐門は通れなかった。あちらは扉も閉まっていたはずだ。何か特別な意味があるのかもしれない。
 ぐるりと右から回り込んで拝殿を目指すことになる。



神楽殿

 確か、神楽殿だったと思う。光る廊下の緑の映り込みに気を取られて、建物をしっかり見るのを忘れていた。
 土足禁止とあったから、靴を脱げばあがってよかったのだろう。せっかくだから中まで見ておけばよかった。
 ここの建物はほとんどが重文指定で、この神楽殿もそうだ。明治時代は本殿などが国宝だったようだけど、今は格下げになっている。補修とかをして原形をとどめないとそうなったりすることがある。



神庫

 階段の上に見えているのが神庫で、これも重文。中にはお宝が眠っているはずだ。
 校倉造りで、なかなか渋い造りになっている。
 全般的に日光のものよりも地味目ながら手間もお金もしっかりかけているという印象だ。家光が手がけたものは過剰すぎるくらいだから、これくらいの方が常識の範囲内に収まっていて、素直に感心できるというのはある。



境内社

 神庫の前にあったのは何だったか。厳島社だったか、違ったか。



日枝神社

 拝殿に入る前の日枝神社。
 これも本来は薬師如来像を安置した御本地堂という寺に属する建物だった。神仏分離令のとき、境内の山王社を移してきて、日枝神社とした。祭神は、大山咋神。
 日枝神社関連については、日吉大社のとき詳しく書こうと思っている。



透塀

 久能山東照宮も、当然ながら拝殿、石の間、本殿の三棟がひと続きとなった権現造で、周りをぐるりと透塀が囲っている。
 透塀の彩色や彫刻はいかにも東照宮的なものだ。いくつか東照宮を見てきて、すっかりお馴染みとなった。



拝殿と本殿

 拝殿と本殿でいよいよ本領発揮したといった感じだ。これぞまさに東照宮。東照宮以外の何ものでもない。
 久能山東照宮は50年に一度塗り替えられていて、前回が2006年に完成したということで、まだまだ美しさを保っていた。
 ここは直射日光に晒される山の上で、しかも塩を含んだ潮風に吹かれるから、傷みが早いんだそうだ。きらびやかな状態を見たければ早めの方がいい。
 しかし、こりゃすごいなと思った。日光に負けてない。ピカピカさでは勝ってるくらいだ。

 追記
 私が訪れた翌年 2010年(平成22年)に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。



本殿の中

 家康が1616年に駿府で死去すると、遺体は即日久能山に運ばれ埋葬された。
 それから大急ぎで東照宮の造営に取りかかり、1年7ヶ月後の翌1617年には社殿が完成した。
 同じく1617年には遺言に従って日光に分骨するような恰好で家康は移り、日光東照宮が建てられている。ただし、現在のような豪華絢爛なものになるのは19年後、家光の時代になってからのことだ。
 霊廟はここではなくもっと奥にあり、社殿には神として家康が祀られている。
 ここでも相殿として秀吉と、信長が同時に祀られている。このあたりの事情もよく分からない。当初からそうだったのか、のちの時代にそうなったのか。



拝殿

 手の込んだ彫りと極彩色の着色にしばし見入る。



唐門の裏

 唐門の裏側から。
 こちらの彫りや色彩も懲りまくっている。
 久能山東照宮は、東照宮ナンバーツーであることは間違いない。三大東照宮のもう一つは、それぞれが名乗っておけばいいけど、二大東照宮は日光と久能山で決まりだ。



絵馬

 東照大権現に何を願えばいいのか、私はちょっと思いつかなかった。それでも、若い頃さんざん苦労した末に天下を取って、世の中を平和に導いたという生き様にあやかれるものならあやかりたいとは思う。関ヶ原の戦いのとき、家康は59歳だった。

 第2回はここまでということにしよう。次回第3回が最終回となる。
 つづく。
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