一度は行きたい白川郷の予習を東山植物園でする <第3回>

建物(Architecture)
合掌造り-1

Canon EOS 10D+Canon EF50mm f1.8 II



 花写真が続いたから、ちょっと趣向を変えて、今日は東山植物園の中にある合掌造りの写真を紹介しようと思う。
 どういう理由で合掌造りの家がこの場所に移転されることになったのかはよく知らない。岐阜県白川村の大牧集落が鳩ヶ谷ダムで水没することになり、昭和31年(1956年)にこの場所に移築された。ここに来てからすでに50年以上の歳月が流れているにもかかわらず、いまだにがっしりと揺るぎなく建っている。
 もともとこの家は、江戸時代の1842年に建てられたものだそうで、高さは10メートル、広さは264平方メートルと、白川村でも最大級だったという。
 平成19年に開園70周年を迎えるということもあって、平成18年から一年近くをかけて茅葺き屋根の葺き替えが行われた。テレビのニュースでは見たのだけど、実際の作業は見ていない。前回が昭和60年だったことを思うと、次はまた20年くらい先になりそうだ。
 白川村では集落の人間が大勢お手伝いをして葺き替え作業を行う。費用は数千万円かかるというから、軽い気持ちではできない。現地では毎年大雪が積もるから、頻繁に修復が必要となる。維持はとんでもなく大変だ。世界遺産に指定されると補助金とか出るんだろうか。
 合掌造りというのは、とんがった屋根の形が合唱した手の形に似ているところからそう呼ばれるようになった。昔はさほど特別な建築様式ではなく、特に雪国などではよく見られた民家のスタイルだった。
 茅葺き屋根は雨が染み込むとよくないから、急斜面にする必要があった。それは同時に、屋根に積もった雪が落ちやすいという利点もあった。
 現在はほとんどが姿を消し、昔の姿そのままで残っているところが少なくなったということで、残された白川郷や五箇山が世界遺産に登録されることとなったのだった。
 白川郷の合掌造りを広く世界に知らしめたのは、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトだ。昭和10年(1935年)に白川郷を訪れたタウトは、極めて論理的な庶民建築と著書に書き、世界だけでなく日本人にも知られることとなった。
 それまで交通が不便だった白川郷は、雪が降ると陸の孤島となって、外部の人間は近づくことさえできないようなところとなり、日本からも忘れられていたという。
 平成7年に世界遺産に登録されて以来、年間の観光客はそれまでの60万人から150万人を超えるようになった。去年高速道路も開通したから、更に観光客は増えることだろう。そうなると、古き良き時代の風景を守るのもだんだん難しくなっていきそうだ。
 私も一度行って見てみたいと思いつつ、なかなか行けずにいる。名古屋から車で3時間くらいだろうか。思うほどは遠くはない。けど、直通のバスで行った方が楽そうだ。

合掌造り-2

 祖父母の家も田舎の木造家屋だったけど、こんな立派な建物ではなかった。圧倒的な存在感にたじろぎそうだ。田舎の権威みたいなものを感じる。
 こんな大きな家では、隠居した家長くらいしか縁側でのんびりくつろいでいることを許されないんじゃないかと思わせる。
 この家の前に立つと、自分は家族の一員ではなく、使用人の気分になる。これは前世の記憶だろうか。腰をかがめて、旦那様、何がご用はございませんかなどと言ってしまいそうだ。

合掌造り-3

 この合掌造りは何度も見ていて、外から写真を撮ったのも二度や三度ではない。なのに、実は家の中に入るのは今回が初めてだった。ちょうど人の切れ目で、中にも外にも誰もいなかったので、これはいい機会だとお邪魔することにした。
 といってもこっそり忍び込んだというのではなく、誰でも入っていいのだけど。
 がらんと広い部屋の中に囲炉裏が二つ。しかし、こんなもの二つでは、昔はさぞかし寒かったろう。戸の間からすきま風も入ってきただろうに。
 昔の暮らしは素朴でよかったなんて言う人がいるけど、とんでもない。昔の生活の厳しさを私たちは忘れてしまってるだけだ。必要以上に暑かったり寒かったり不便だったりする生活は、もう嫌だ。

合掌造り-4

 ああ、いいなと思う。縁側から入り込む光の具合や、日本家屋が作り出す影に心安らぐ。優しさと温もりがある。
 こういうところに美しさを感じるのも、日本人特有の感覚なのだろう。

合掌造り-5

 表から見ていると居丈高に見えたこの家も、中に入ってしまうと、こちら側の住人になったようで安心感が生まれる。すぐにこの室内の空気感に馴染んだ。居心地がいい。
 演出で作られた干し柿にも生活の匂いみたいなものを感じた。フッと感覚がトリップする。

合掌造り-6

 板床のひんやりした感じは、遠いものではない。懐かしささえある。
 フローリングなんてものはちっとも新しいものではなくて、日本には昔から当たり前にあったものだ。室町時代の城もフローリングといえばフローリングだ。
 日本家屋の光と影という主題でもっと写真が撮りたくなった。いい光のときに、また明治村へ行こう。

合掌造り-7

 台所や物置、作業所なども、そのまま再現されている。こちらは暗くて寒々しい。
 家の中でもこういう部分は実際に人が生活していないと、温もりはまったく感じられない。使用人だった頃のつらい記憶が蘇りそうだ(本当に使用人だったんだろうか、私)。
 白川郷にもこういう見学できる家が用意されているそうだけど、こんなにゆっくり見て回ることはできないだろうから、そういう意味でも東山植物園のこの建物は価値がある。
 集落の合掌造りはみなさん住んでいるから、当然室内は見られないはずだ。

合掌造り-8

 合掌造りと関係あるのかないのか、鶴などの折り紙が吊されていた。冬は雪で外に出られないから、みんなして折り紙でもしてたというのか。
 裸電球というのもいかにもという感じだけど、移築された年代を考えると当時はまだそうだったのかもしれない。

合掌造り-9

 奥には仏間があり、その更に奥には神棚もある。ここでも当時の神仏習合の名残が見受けられる。
 下に並んでいるのは燭台だ。
 ここは奥座敷で、家長の寝室だったようだ。デイと呼ばれていたらしい。
 仏間はナイジンというそうだ。
 その他、居間のことをオエなど、いろいろ地方特有の呼び名がついていたようだ。もしかすると、今でも受け継がれて使っているのかもしれない。

合掌造り-10

 わらじでもなく、かんじきでもなく、こんなふうにワラで編んだ靴を何というんだろう。
 雪国の人が履いているというイメージの靴だ。聞けば思い出すのか、全然聞いたことがない名前なのか。
 生活の知恵というのは大したもので、ないものは自分で作ってしまおうという発想が昔の日本人にはあった。そこから偉大な発明も生まれた。今は既製品を買うことしか考えないから、脳は退化している部分もある。
 これを履いて電車に乗っていたらかなり斬新だろう。上はスーツなら、尚いい。

合掌造り-11

 合掌造りにすると屋根裏に広い空間ができる。ここを遊ばせておくのはもったいないということで、養蚕(ようさん)が始まった。3層、4層に区切って、たくさんの蚕(カイコ)を飼っていたという。もちろん、趣味で飼っていたわけではない。繭から生糸をとるためだ。
 今どきの人はカイコなんて見たことがないかもしれないけど、私たちの子供の頃はまだ身近にカイコがいた。どういうきっかけで誰にもらったのかは忘れててしまったけど、一時カイコを飼っていたことがある。近所にエサとなる桑の葉もとりに行った。繭も持っていたはずだ。最後は羽化して蛾になって飛んでいったんだったか、どうだったか。
 現在でもわずかに養蚕農家が存続しているそうだ。当然ながら、そこでとれる生糸は超高級品となる。それでも、わずかしか残ってないということは、労力に見合うほど儲からないということだろう。

 合掌造りについての予習が済んだところで、あとは実際に現地に行ってのフィールドワークだ。東山植物園の建物は、あくまでも展示品だ。言葉は悪いけど、死んだ建物だ。実際に使われている建物を見れば、また全然違った感想を抱くに違いない。それになにより、合掌造りの家は、山間の風景に建っていてこそだ。山里の風景を撮りたい。家屋そのものが見たいわけではない。
 雪の集落風景が最高だろうけど、それを見に行く根性が私にあるかどうか。冬場は自分の車では行けないから、行くならバスということになる。遅い春というのもよさそうだ。
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コメント
  • 2009/02/07 07:13
    私の周りにいる”昔は良かった”っていうお年寄り連中は往々にして昔の嫌な所、大変だったことを”都合よく忘れている”人が多いです

    どんなに過去が光り輝いていても、これから紡いで行けるのは”未来”でしかないのに・・・

  • 昔はよかったり悪かったり
    2009/02/08 03:50
    ★ただときさん

     こんにちは。
     昔はよかったと思えるのは長生きした人間の特権なのだけど、私たちは本当に昔の悪かったところを忘れてしまいがちですね。
     学生時代はよかったっていうけど、当時は嫌なことやつらいことはたくさんありましたよね。
     けど、昔があって今があって、これが未来へつながっていくのだと思うと、昔もやっぱり大事なものだと思う。
     懐かしい友達と会って昔話をするのは楽しいですしね。
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