光と色と影と夜の写真

日常写真(Everyday life)
光と色と夜-1

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 他



 光があるところに色が生まれ、影ができる。光が強ければ強いほど、闇は暗い。人の目もカメラのレンズも、強いコントラストの両方を同時に捉えることはできない。だから私たちは、どちらか片方に心を奪われがちだ。
 光の住人と闇の住人がいる。それは相容れない存在かもしれない。昼間に生きる人間と、夜に生きる人間と、両方がいなければこの世界は成り立たず、互いに交わりきれない部分がある。
 写真を撮っていると、いつも光が気になる。光は平凡な被写体を非凡なものに変えてくれるから。けど、光を成立させているのは影なのだということを忘れてはいけない。影を正しく捉えることが、光を捉えることにつながる。
 ライティングというのは、どこに影を作るかの仕掛けで、影の存在が画面を決めていると言ってもいい。人間の個性を決めるのが見えない奥の部分であるように。
 たぶん、モノクロ写真を撮ると、光と影についてもっと強く意識するようになるのだろう。個人的に写真はカラーじゃないと面白くないと思ってるからモノクロは撮らないけど、勉強のためにモノクロフィルムで写真を撮るのもいいかもしれない。

光と色と夜-2

 私が一番好きな空の色。淡いピンクとブルーが優しく溶け合った色。幸福色と私が呼んでいる色。
 夕方にこの色と出会うと、不思議な幸福感に包まれる。

光と色と夜-3

 笑顔ばかりの人生じゃつまらない。涙も大切なエッセンスだ。
 泣き終わった笑顔を見たくて私たちは生きているのかもしれない。
 これからも私たちはたくさんの涙を流すことになるだろう。それでも、悪い涙ばかりじゃない。

光と色と夜-4

 滲んだ光の風景。裸眼で見る私の世界。
 視力が悪いということは、生きていく上で少なからぬ影響があるように思う。もし視力が1.5だったら、私は別の道に進んでいたんじゃないだろうかと思ったりもする。
 でも、目が悪いということは、嫌な部分が見えないということでもある。見えすぎないことの幸せもある。
 私の目に映る世界はとてもきれいに見える。

光と色と夜-5

 夜を照らす小さな明かり。私たち日本人が明かりを手に入れたのはそれほど遠い昔ではない。130年ほど前のことだ。それまで夜は暗いものだった。不夜城のように深夜から朝まで煌々と明るくなったのは、ここ数十年のことに過ぎない。
 夜が明るくなって以来、人々の暮らしは変わり、心も変わっていった。それが幸福なことなのかどうか、判断するのは難しい。
 月の出ていない夜に、田舎か山へ行ってみるといい。真の闇というものがいかに恐怖心をもたらすものかというのが分かる。目の前の自分の手が見えない暗闇というのは、前にも後ろにも進めず、立ち尽くすしかない。

光と色と夜-6

 明るくなったのは街だけではない。室内もまた昼と変わらない明るさを手に入れた。
 けど、部屋の明かりというのは暖かくていいものだ。夜家に帰ったとき明るいと嬉しい。暗い家に帰るのは寂しい。
 一人寂しげに夜道を歩いている人を見ると、あの人が帰る家は明かりがついているのだろうかと思う。

光と色と夜-7

 Sunday Mamaを走り撮り。
 Sunday Mamaといっても何のことか分からない人が大部分だと思うけど、そういう名前の雑貨屋さんだ。名東区の地アミにあって、好きな人は好きだろうなと思わせる生活雑貨が揃っている。無印良品よりも温かみがあって、値段も高めといった感じだった。
 自分の好きな物に囲まれた暮らしというのは、確かな喜びをもたらす。値段で選ばず、少し高くても本当に気に入ったものだけを買った方が幸せになれる。

光と色と夜-8

 サイトアドレスがデザイン的に店の看板になる時代が来るとは想像してなかった。インターネットを始めて10年くらいになるけど、当時はwwwが何の略かさえ知らず、自分のサイトを持つなんてことも遠い世界の話だった。PCそのものが今ほど一般的なものではなかった。
 いろんな部分で知らない間に時代が進んでいっていることを、ある日ふいに何かのきっかけで気づかされる。気づいたときにはもう時代は先にいってしまっている。

光と色と夜-9

 この寒空に店の外に座って何を話してるんだと思ったら、マネキンだった。どういう演出だ、それ。
 夏に見たら、もっと違った感想を抱いただろうか。

光と色と夜-10

 昔に比べたらこのあたりもずいぶん街灯りが増えた。以前はもっと暗かったように思う。とはいえ、まだまだ郊外の夜景だ。高いビルも少ない。
 30年後、50年後、100年後、ここからの風景はどれくらい変わっているのだろう。変化の速度が速すぎて、10年後さえ想像するのが難しくなっている。名古屋初の超高層ビルJRセントラルタワーズが建ったのが10年前だ。
 未来を自分の目で確かめたければ、長生きするしかない。幸せであろうと不幸であろうと、生き延びさえすれば世界の未来図を見ることができる。それは生きるに値する理由となる。
 日が暮れて夜となり、また夜が明けて昼が始まる。光と闇は明滅し、あるいは生まれ、あるいは死に絶え、街の風景はとどまることなく移り変わっていく。
 しかし、すべては一瞬の連続だ。写真はどの一瞬も切り取ることができる。そこに写真の価値がある。動画の時代になっても写真が時代遅れになることはない。写真でしか表現できないドラマもある。
 人の心の暗い部分に小さな明かりを灯すことができるような写真が撮れたらいいと思う。
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コメント
  • 2009/02/01 11:59
    信濃の光善寺から、歩いて3分ほどの宿に泊まった時、光善寺のヒカリゴケを、夜に光る苔かと勘違いした(爆)母と一緒に、下駄をカランコロン、ヒカリゴケ見物に出掛けてしまったのですが、道すがらから見事に真っ暗で、嗚呼、本当は夜って、こんなに暗かったんだなぁーと、思ったのです。
    こんな場所なら、セミが夜中に鳴き続けるコトも、ないんだろうなぁー と。
    昔は、灯りの灯った夜が贅沢だったわけだけれど、
    都市生活者には、もはや、暗闇の夜の方が、贅沢品のような気がします。
    民家や団地の窓の灯りは、幸福が灯ってるみたいに見えて、大好きですけどね。

    件の、光善寺の門の中は、道すがらより更に暗く、鼻摘まれても分からない暗さだったので、母子は尻尾を巻いて宿に戻ったのですが、
    翌朝、顔を引きつらせた女将から、「修学旅行生の方が、肝試しに行かれるコトなら、たまにありますけど・・・」って、呆れられました。ちょっとした武勇伝です(笑)。
  • 夜は光らない
    2009/02/02 03:37
    ★くすかさん

     こんにちは。

     ヒカリゴケは夜には光らないですよね。(^^;
     映画でヒカリゴケが出てきたのは、あれはなんだったろう。
    「TRICK」の中の阿部寛が仲間由紀恵との掛け合いでヒカリゴケを食ってろとかなんとかいうセリフもあったような。
     でも、その勘違いのおかげで闇を体験できたのは貴重でしたね。
     鼻をつままれても分からないってのは、大げさでは本当ですよね。
     闇を体験するのが難しくなったというのも、失われた自然の一つかもしれない。
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