猿投神社に関して今の私が書けることのすべてを書いてみた

神社仏閣(Shrines and temples)
猿投神社-1

OLYMPUS E-510+ZD 14-54mm f2.8-3.5



 ちょっと唐突だけど、猿投神社について書く前に、日本の歴史と神話について軽く復習しておきたいと思う。私自身、古い時代に関してはまだ興味を持ち始めて日が浅いということで理解がまだ充分じゃないところがある。なので、書きながら理解を深めていこうという意図もある。難しくてよく分からない部分もあるから、なるべく簡単に書いていきたいと思う。
 まずざっと日本の歴史を振り返ってみると、今から10万年くらい前には日本列島に人が暮らしていたといわれている。縄文時代というのはものすごく長くて、1万6,500年くらい前から3,000年ほど前(紀元前10世紀)くらいまで続いたということになっている。しかし、1万3,000年も半裸裸足で食べるために野生の生き物を追いかけ回していたというのはちょっと信じられない。私たちは昔の人を侮りすぎているところがある。実は思っている以上に文化的で人間らしい暮らしをしていたんじゃないかと思うけどどうだろう。縄文時代後期にはすでに稲作を始めていたという話もある。
 次に来るのが弥生時代だ。これは紀元前8世紀から紀元後3世紀あたりとなっている。しかし、この時代に生きていた人に時代という概念はない。弥生時代というのは、1884年(明治17年)に東京市本郷の弥生町(現在の文京区弥生)の貝塚で見つかった土器を、地名にちなんで弥生式土器と呼んだことからそういう時代区分になっただけだ。縄文人が、おい、明日から弥生時代が始まるんだってよ、なんて会話は交わしていない。
 卑弥呼が生きていたのがこの弥生時代で、2世紀後半から3世紀のはじめにかけてだ。この頃には連合国家のようなものもできていて、中国との交流も盛んだった。この時代の日本について多少なりとも知ることができるのは、中国の記録に残っているからだ。
 ヤマト王権誕生が次の古墳時代で、3世紀の中頃から7世紀まで続き、あとはお馴染みの飛鳥時代、奈良時代、平安時代と続いていく。
 今回、どうしてこんな古い歴史を持ちだしたかというと、『古事記』と『日本書紀』について少し書きたかったからだ。ものすごく古い書物と思っている人も多いと思うけど、実はこの2冊は意外と新しくて、奈良時代初期に作られたものだ。『古事記』が712年で、『日本書紀』が720年完成とされている。
 この2冊は日本最古の書物ではない。その前に皇室系図の『帝紀(ていき)』と、歴史書の『旧辞(きゅうじ)』というのがあったことが分かっている。500年代の中頃に作られたものらしい。ただし、現存していないため、現存する最古の書物が『古事記』や『日本書紀』ということになる。
 これらを作らせたのは、壬申の乱(672年)に勝利して即位した天武天皇だった。日本もちゃんとした国家としての体裁を整えるべく、日本の歴史をきちんとまとめておこうと考えたのだろう。しかしながら、卑弥呼の時代からでさえすでに500年からの歳月が流れているわけで、古い時代のことは口伝えだから、事実を正確に記録するというのは難しかったろう。適当に想像で補ったり、話を面白くしたり、天皇家にとって都合のいいように書き換えたりなどということがあったとしても仕方のないことだ。
『古事記』と『日本書紀』の違いは、簡単に言うと、『古事記』が天皇家のための私的なものであるのに対して、『日本書紀』は国家として作った公式なものということだ。そういうこともあって、ほぼ同時期に作られた歴史書でありながら、内容はあちこちで違っている。
 天武天皇の命令で『帝紀』と『旧辞』を暗記した稗田阿礼(ひえだのあれ)の話を聞いた女帝の元明天皇が、私もあれを読みたいと言いだして、太安万侶(おおのやすまろ)に命じて編集させたのが『古事記』だ。女帝の天皇に分かりやすいように仮名交じりで書かれている。
 一方の『日本書紀』は、天武天皇が多くの貴族たちに命じて『古事記』をベースにしながら中国の書物などを参考して作らせた公式の歴史書という性格のものだった。こちらは当時の公式文章である漢文で書かれている。
 といったような話を踏まえた上で、今日の猿投神社本編は始まる。出だしから日本史の勉強になって、頭が痛くなってすでに逃げ出してしまった人もいるかもしれないけど、ここまで残った人は最後までおつき合いください。

猿投神社-2

 グリーンロード猿投インターを降りて、349号線を5、6分北上したところに猿投神社はある。左手の黄色い鳥居が目印だ。これがどうして黄色く塗られているのかは調べがつかなかった。意味があるのかないのか。

猿投神社-3

 いい神社か、それほどでもない神社かは、門をくぐる前に分かる。いい神社は門の前まで行くと、すでに空気が違う。単に門の造りが立派だとか、歴史があるとか、そういうことでもない。
 実は猿投神社に参拝するのは今回が初めてだった。2004年に猿投山に登ったときは東宮には行ったけど、本社には立ち寄らなかった。2005年の冬に猿投七滝へ行ったときも、前を通っただけだった。あいつ、二度も素通りしやがってと、猿投の神様は怒っていたかもしれない。

猿投神社-4

 参道に入って総門を振り返ったところ。紅葉はここと、その他数ヶ所あるだけだった。神社だから紅葉があるだろうと期待していくと肩すかしを食う。もう少し彩りとしてもみじなどを植えればいいのにと思うけど、神社の植樹というのは神職の勝手な判断でやってはいけないものなのだろうか。

猿投神社-5

 門から長い参道が本殿の方に向かって続く。かなり奥行きがある。さすが、三河国の三宮の格式を誇る神社だ(一宮は砥鹿神社、二宮は知立神社)。
 創建年は不詳。社伝によれば仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が即位した192年、勅願によって建てられたとある。にわかには信じられないけど、日本最古の神社とされる奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)は、紀元前91年というから、まるっきりのでたらめな年代ではないのか。
 仲哀天皇というのは、記紀(『古事記』と『日本書紀』を略してこう呼ぶ)によると第14第天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の2番目の子供ということになる。神功皇后の夫でもあり、応神天皇の父ともいう。ただし、実在性は疑われている。
 猿投の語源には諸説あって、定説はない。面白い説としては、文字通り猿を投げたからだというのがあり、それはこんな話だ。
 ヤマトタケルの父である景行天皇は猿が大好きで、いつもそばにはべらせていた。伊勢に行ったとき、その猿が不吉なことをしたので天皇は怒って、猿を海に投げ込んだ。しかし猿は死なず、海を泳いで陸に上がり、尾張方面に向かって逃走。鷲取山へ逃げ込んで隠れてしまった。
 それからしばらくして、ヤマトタケルが東征に向かう途中、一人の兵士が現れて自分も連れて行ってくれという。その戦で活躍した兵士は戻ってくると猿に姿を変えて、山に帰っていった。天皇にお詫びがしたかったのだと言い残して。以来、鷲取山は猿投山と呼ばれるようになったのだという。
 面白おかしい話だけど、どう考えても事実とは思えない。昔の表記では狹投神社とも称していたようなので、猿とは直接の関係はなさそうだ。

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 一番最初に現れるこの建物が拝殿ということになるのだろうか。後ろの社殿とは少し離れていて、賽銭箱もないので、ちょっと確信が持てない。舞台のような造りにもなっている。
 社殿の多くは、江戸末期1853年の大火で焼けてしまい、その後再建されたもののようだ。室町時代末期のものも残っているというけど、どれがそうなのかはよく分からなかった。伊勢湾台風のあとに再建された建物もあるそうだ。
 この右手には太鼓が乗った太鼓殿というのがあって、これはちょっと珍しい。

猿投神社-7

 拝殿と思われる社殿は途中でいったん切れて、また短い建物が続く。このへんの造りは変わっていて見慣れないものだ。

猿投神社-8

 通常拝殿があるところにあるのは拝殿ではないようだ。手前のが四方殿なのか、違うのか。
 回廊、祈祷所、中門、祝詞殿、本殿と続くというのだけど、どれがどれやらよく分からない。本殿は屋根がちらりと見えるだけだ。
 祭神の大碓命(オオウスノミコト)は、内々神社のときもちらっと書いたように、ヤマトタケル(小碓命)の双子の兄とされる人物だ。
 ヤマトタケルの実在については、記紀の記述そのものと思っている人はほとんどいなくて、大勢の英雄伝を一つにまとめて作られたヒーローというのが一般的な見方となっている。その中心というか、元となったのがおそらく小碓命(オウスノミコト)で、この実在というのは充分あり得ると思う。そうじゃないと、オオウスの実在性まで疑わしいことになってしまって、話がかえってややこしいことになる。
 オオウスの評判は記紀ともによくない。父である景行天皇に美濃の美人姉妹を都に呼んでくるようにと命じて使者として出向いていったのだけど、その二人が気に入って結婚してしまい、替え玉を都に送ったところバレてしまって父はカンカン。これがケチのつき始めだった。
 この後の展開は記紀それぞれが違っている。『古事記』では、父親と顔を合わせづらくなったオオウスは朝夕の食事の席にも出てこず、大事な行事も不参加ということでますます父親を怒らせてしまう。父が弟のオウスに、ちゃんと出てくるように兄貴に言ってこいと差し向けたところ、言うことを聞かない兄貴に腹を立てたオウスは、オオウスが便所に入ったところをいきなり襲って、手足をちぎって投げ捨ててしまった。
 その報告を聞いた景行天皇は、オウスを恐れるようになり、西へ東へと征伐の旅に追いやることとなる。
 ただ、これだとオオウスと猿投神社とがつながらないので、『日本書紀』の方の説を採ることにしたい。『日本書紀』では、罪滅ぼしとしてオオウスに蝦夷征伐の命を与えたとある。しかし、オオウスは怖くて嫌だとこれを辞退してしまう。なんだかどちらにしてもひどい書かれようのオオウスで、ちょっと気の毒になる。そこでもうしょうがないということになって、天皇はオオウスを美濃に封じることにした。おまえはもうそこでじっとしてろと。逃げるんじゃないぞと。
 美濃ではわりと真面目にやっていたようで、開拓などをしたという話もある。ただ、美濃でおとなしくしてることに飽きたのか、三河の猿投山へとやって来た。何をしに来たのか、詳しいことまでは分からない。とにかく猿投山を歩いているときに毒蛇に噛まれて死んでしまった。42歳だったという。
 なんだかとても唐突な話のようにも思えるけど、そうじゃないと猿投山とオオウスとがつながらない。猿投神社には本社の他に西宮と東宮があって、西宮の裏にオオウスのお墓とされる大碓命陵というのがある。
 実はこの話には後日談があって、明治16年に教部省のお役人が訪れて、公式にここが大碓命の陵ということを認定したというのだ。何を根拠にオオウスの墓と断定したのかは知らないけど、なにがしかの証拠みたいなものがあったのだろう。
 ということは、大碓命は実在したということになり、その双子の弟である日本武尊こと小碓命も存在したということになる。小碓命がヤマトタケルのすべてではないにしても、東征や伊吹山あたりの話は、小碓命の物語と見ていいのかもしれない。
 そんなこんなで猿投神社は、大碓命を祭神としている。小碓命の子供である仲哀天皇が大碓命を祀るために猿投神社を建てたというのも、話の流れとしては納得がいく。ただ、記紀の物語が作り話だったり、間違いだったりした場合は、どこからどこまでを信じればいいのか分からなくなる。
 祭神が大碓命となったのは近世以降で、それ以前は猿投の神様を祀っていたともいう。本来は猿投山を御神体として祀った神社だったと考えた方が現実的だろうか。でも、それでは話が面白くない。
 現在は大碓命の他に、父の景行天皇と、祖父の垂仁天皇も一緒に祀っている。祭神になっても父親と一緒では、オオウスも肩身の狭い思いをしてるんじゃないだろうか。オオウスは悪いやつじゃない。根はいい奴だと思う。争いごとが嫌いで、女が好きで、ちょっと怠け者のおぼっちゃんというイメージだ。

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 猿投神社では古くから左鎌を奉納して祈願するという、不思議なならわしがある。
 双子は片方、もしくは両方が左利きだとされていたようで、そこから来ているのではないかとのことだ。この地方を開いたオオウスが左利きで、開拓の象徴して鎌になったのではないかともいう。
 個人の祈願よりも会社ぐるみのものが多いようだった。
 大碓命は大田君(おほたのきみ)の始祖だから、ひょっとしたら私と細い糸でつながっているのかもしれない。

猿投神社-10

 社殿向かって右手に境内社が並んでいる。熱田社、塞神社、八柱社、大国社で、左手には厳島社、境外社には広沢天神社や建速神社などもある。
 天武天皇の時代、勅願によって白鳳寺を建立したとも伝えられている。中世の最盛期には16坊を持ち、正1位猿投大明神の地位まで上り詰めたという。
 1853年の火事で本地堂や三重塔などが焼け、明治の神仏分離令によってすべて壊されてしまった。現在は跡地がわずかに残っているだけだ。

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 お宝が眠る宝物庫もある。
 現存する日本最古の鎧とされる平安時代の鎧「樫鳥糸威鎧大袖付(かしどりいとおどしよろいおおそでつき)」をはじめ、太刀や書籍などを所有しているそうだ。

猿投神社-12

 クスッと笑えた。
「人形 ぬいぐるみ 置物
 お受けいたしません」
 神社に持っていけば何とかなると思って持ち込む人も少なくないのだろう。ここにフィギュアという言葉が入ると、とても現代的だ。

猿投神社-13

 日はとっくに沈んで、境内はすっかり薄暗くなった。しゃがみ撮りでさえ手ぶれを抑え込めなくなったら限界だ。この日は手ぶれのボツ写真を大量生産してしまった。もう少し明るいうちにゆっくり行きたかった。
 東宮は一度行ってるからいいとしても、西宮はまだ行ったことがないから、一度は行かないといけないだろう。オオウスのお墓があるところだし。
 今回もだいぶ長くなったけど、書こうと思っていたことはほぼ書ききることができた。取りこぼしとしては、秀吉、家康もこの神社を大事に保護したということと、伝統の棒の手行事が行われているということあたりだろうか。少し離れたところに天然ラドン温泉の猿投温泉というのがあって、それにも触れようと思っていたけど、まあこれくらいでいいだろう。
 以上が私にできる猿投神社と記紀の話のすべてだ。今日書いたことがきっとまたどこか別のところにつながっていく。それを私自身も楽しみにしておこう。
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