
尾張旭の神社巡りシリーズはずいぶん長くかかっていて、まだ終わっていなかった。始めたのが2007年の4月の渋川神社編だから、1年半もかかっている。9つしかないのに、かかりすぎだ。残りは3つだったから、今日一気に回って完結させてしまうことにした。
その中で最初に行ったのが、本地ヶ原神社だった。本地ヶ原というと、市営本地荘が守山区に組み込まれているから守山区のような気がしているけど、大部分は尾張旭市に属している。どういうわけか市営本地荘だけが飛び地のように守山区に取り込まれている。そのあたりの事情はよく分からない。地理的にも守山区と尾張旭が入り組んでいて、住人でさえその境界線を完全には把握していないという話だ。バスは名古屋の市バスが走っている。
近くの尾張旭市内にも本地ヶ原住宅というのがあって、そちらの子供は尾張旭の本地原小学校に通い、本地荘の子供は守山区民なので本地丘小学校へ通っている。中学は当然、森孝中学ということになる。新人の郵便配達人などは間違えそうだ。
それはともかくとして、本地ヶ原神社を私は今まで知らなかった。前の大通りは何百回と走っているし、裏道も何十回かは通っているはずなのに、神社の存在を今まで一度も意識したことがなかった。不覚というか盲点というか、一度の挨拶もなかったことをお詫びする意味でも参拝する必要があった。
地図を見てだいたいの場所の見当を付けて出向いていったのだけど、なかなか見つけることができず周囲を無駄にぐるぐる走ってしまった。見つけたときは、なんでここにあるのに今まで気づかなかったのだろうと、自分自身不思議に思ったのだった。

元白山神社という石碑と、白山林の戦いの説明板が立っている。戦国通の人なら、ここがあの白山林かとすぐにピンと来るだろうか。私はピンとも何とも来ず、家に帰ってきて本地ヶ原神社のことを調べていてようやく、ああ、あの白山林かと気づいた。前の通りは白山通りという名前で、そこにかつての名残を残している。
昔このあたりは白山林(はくさんばやし)と呼ばれる山で、現在は一部雑木林が残るのみとなっている。江戸時代に新田開発が行われ、戦後は住宅地となっていった。
本地荘のあたりはこの辺で一番高台になるから、大洪水になったとき逃げるのに適している。本地荘が水に浸かったら、もう日本沈没だ。
小牧長久手の戦いについても、いつかまとめて書こうと思っているのだけど、ここでは簡単に白山林の戦いについてだけにしておきたい。
本能寺の変から2年後の1584年、後継者争いをする秀吉と信長の次男・信雄の間で行われたのが小牧長久手の戦いだ。信雄は単独では勝てないということで家康に援軍を頼んだため、実質的には秀吉と家康の戦いとなっていく。
膠着状態を打破するために両軍が動いたのが4月8日。家康の本拠地・岡崎城を襲うために秀吉方の池田信輝・森長可隊、堀秀政隊、三好秀次隊が南下を開始。その動きを察知した家康方もあとを追う。徳川家康・織田信雄隊は池田信輝・森長可隊を追い、榊原康政・本多忠重隊、水野忠重・丹羽氏次隊などは三好秀次隊を追走して矢田川(小幡あたり)を渡った。
翌9日、午前5時。白山林で休んでいた三好秀次隊に向かって突然林の中から一斉射撃をしてきた隊があった。大須賀康高・岡部長盛隊がそれだ。同時に背後から水野忠重・丹羽氏次隊も襲いかかってきたからたまらない。三好秀次隊は大混乱を来して、大あわてにあわててちりぢりに逃げまどう。側面からは榊原康政・本多忠重隊も攻めかかってきて反撃するどころではなかった。
大将の三好秀次はこのとき17歳。秀吉の甥は、8000人の大部隊をいかすこともできず、しまいには自分が乗っていた馬さえどこかへ見失ってしまった。
このままでは逃げ延びることもできないというんで、たまたま横を通りかかった可児才蔵に馬をよこせと命じたところ、あっさり断れてしまう。「雨の日の傘に候」と言ったとか言わなかったとか。
続いて通りかかったのが、木下勘解由(きのしたかげゆ)だった。木下は秀吉の身内ということで、この命は断れない。馬を差し出して、兄弟の木下祐久とともに、追ってきた徳川軍と戦って戦死した。木下祐久は秀吉の正室ねねの父親と言われる人物で、その他木下一族は秀次が逃げる時間稼ぎのために多くが討ち死にしたと伝えられている。
馬を貸さなかった可児才蔵は、浪人となったあと福島政則に召し抱えられて、関ヶ原の戦いでは東軍として大活躍することになる。
どうにかこうにか戦場を脱した秀次は、香流川を渡って、長久手方面に逃げ延びていった。その後、両軍が長久手に集結する格好となり、長久手の戦いへとなだれ込んでいく。そのあたりのことは、いずれ機会があれば書いてみたいと思っている。

神社は全般的にものすごく新しくなっていた。どこもかしこもピカピカの新築だ。平成15年だか16年だかに全面建て替えをしたそうだ。これだけ新しいとありがたみも何もあったもんじゃなくて、なんだか妙に戸惑ってしまう。火事で焼けたとかではなさそうだから、老朽化で思い切って新築したということなのだろう。以前の姿をまったく知らないというのが惜しまれる。もっと早くここの存在に気づくべきだった。
新築の影響もあってか、神社特有の濃密な空気は抜けていた。

創建はよく分かってないようだ。700年代という話もあるらしいけど、本当だろうか。寛文5年(1665年)に尾張徳川家によって再興されたという記録は残っている。
祭神は、イザナミ(伊邪那美)というから、やはりもともとの白山神社の関係だろう。愛知県も白山神社は少なくない。ただ、どうして菊理媛神やイザナギは抜け落ちてしまっているのか、そのあたりの詳しいところはよく分からない。
実はこのあと回ったのも白山神社で、そちらとの関係はどうだったのだろう。二つあると紛らわしいからというので、こっちは本地ヶ原神社に改名したということだろうか。

拝殿裏の本殿は、塀に囲まれて屋根の部分しか見えない。拝殿、本殿とも、伝統的な神社建築ではないように見える。以前はどうなっていたのかが気になるところだ。

狛犬などもすべて新しくなっている中、境内社だけは昔のものを流用したようだ。
左から、兜神社、北野天満宮、黒石大明神と並んでいる。
兜神社というのは、小牧長久手の戦いの戦没者を慰霊するために建てられたもののようだ。
北野天満宮は、天神さまとして勧請したのだろう。
黒石大明神というのはよく分からないのだけど、次に出てくる天狗のかかと岩というのと関係があるのだろうか。

大きな黒い石の中央に穴が開いているのが見えると思う。これは、白山林にすんでいた天狗が、猿投山の天狗に会いにいくとき、エイヤっとジャンプしてついた足跡だという。それにしては、天狗の足が小さすぎる。だから、かかと岩なんだろうけど。
実際のところは、7世紀に建造された横穴式石室を持つ天狗岩古墳の天井石だと言われている。昭和50年ごろまで長坂町の矢田川の崖にあったものを、ここに移してきたそうだ。

隣の本地原小学校のイチョウがだいぶ色づいてきていた。

本地ヶ原神社はやや印象が薄かったものの、これまで長い年月すれ違い続けてようやく縁ができたことを喜びたい。一度でも行けば馴染みとなるし、一度も行かなければ無縁のままだ。これから何度も前を通る機会もあるだろう。知り合いが多いほど、何かのときにひょんなことで助けてもらえることがある。それは人も神様も同じだ。
尾張旭の神社巡り第6弾で9つ制覇するもまだ完結に至らず
【アクセス】
・鉄道駅からは遠いので、バスか車で。
・無料駐車場 あり
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