
PENTAX K100D+SMC Takumar 135mm f2.5 / 300mm f4 /OLYMPUS E-510+ZD 14-42mm 他
私の主な散策時間は夕方だ。なので、必然的に夕焼けの写真は多くなる。10月に入って日没が早くなると、この傾向が更に顕著になる。好むと好まざるとに関わらず、夕焼け写真しか撮れないと言ってもいいくらいだ。夕方の光が特別好きでこの時間を選んで撮りに行っているというわけではない。
個人的に日没の時間をリクエストできるとしたら、私は6時半を希望したい。7時過ぎだと今度は遅すぎて夕焼け写真を撮れないし、5時台になってしまうと夕焼け写真しか撮れなくなるから。一番日が短くなる冬は写真を撮ること自体が難しくなる。
ここしばらくフィルム写真シリーズのネタが続いてた裏で、日々ちまちまとデジで写真も撮っていた。それを振り返ってみたら、思った以上に夕焼け関連の写真が多かった。ここはひとつ夕焼け写真を集めてひとネタにしてしまえというのが今日の趣旨だ。フィルム写真が一段落ついたところで、たまにはデジの写真を挟むのも悪くない。
フィルム写真はなんというか乾いていて、あまり続くと水分が欲しくなるような気分に陥る。ドライかウェットかで言えば、フィルムはドライでデジはウェットだ。フィルムはノルタルジックで、デジはセンチメンタルと言ってもいい。無機質であるはずのデジの方がみずみずしいというのもおかしなものだ。
自分が撮った夕焼けの写真を見ていたら、自分はセンチメンタルな写真を撮りたいんだなとあらためて気づいた。ノルタルジックでセンチメンタルな写真のぼんやりとしたイメージが頭の中にあって、それを追いかけて手が届かないもどかしさをいつも感じている。人のいる風景が好きなのも、センチメンタルと無関係ではない。
今日の写真の中に、ヒントがいくつかあった。でもまだイメージははっきりしない。

優しいピンクの夕焼け空と河原風景。そこに集う人々のドラマが見え隠れする。
河原における不干渉コミュニティというのは一種独特のものがある。公園とも違い、森や山とも違う。ウォーキングやジョギング、犬の散歩、川遊び、立ち話、自転車で移動の人、写真を撮る私。それぞれの目的の違いや微妙な距離感がある。コミュニケーション不全でありながら同じ場を共有するというのは、他にはあまりない。海辺は日常と非日常が混在する場所だから、河原とは性質が違う。河原は日常世界の中にあって、日常とはズレた特有の居心地のよさがある。

夕焼け色に染まった川を入れての縦撮り。
少し味付け不足。もう一つ要素が必要だった。

川横の水面に映った夕焼け色。
水の映り込みは多くの可能性を持っているから、いいシーンがないかといつも探しているけど、そう簡単には見つからない。映り込みはテクニックよりも発見した者勝ちだ。写真が上手い人は、いいシーンを見つけるのが上手い人に他ならない。それはセンスと言ってしまえばそれまでだけど、経験と勉強で上積みできる部分でもある。写真は撮らないと上手くならない。

日没が近づいて暗くなってきた。ぎりぎり撮れたカモも、暗いのと水中に顔をつけているのとで、どこにいるのかよく見えない。石と区別がつきづらい。この写真の中に5羽はいるはずだ。
これはたぶん渡ってきて間もないマガモかコガモだと思うのだけど、肉眼で見てもはっきり分からず、今こうして写真を見ても確信が持てない。まだ羽が生えかわってないから、オスが混じっていても区別がつかない。今度明るいうちに確かめに行こう。
10月もそろそろ後半ということで、渡りのカモたちが一斉に戻ってくる頃だ。川や池がまた賑やかになる。

日没間際で赤みが増した。望遠で一番染まっているところを切り取ったからよけいに強調されている。
右手前に写っている黒い影はコウモリだ。一般的なアブラコウモリだろう。たくさん空に飛び交っていた。そういえばコウモリというのも寒くなると増えてくる鳥だ。夏の間はどこで何をして過ごしているんだろう。あまり考えたことがなかった。

なんとか撮ってやろうと10分くらい粘ってはみたものの、一番ましなのがこれだった。コウモリ撮りは非常に難度が高い。動きが速くて不規則だから読めない。マニュアルフォーカスで、これだけ暗くなってシャッタースピードが稼げない状況では至難の業だ。中古のD2Hでも買って、半日くらいシャッターを切りまくれば一枚くらい当たるかもしれない。
CanonのLレンズとNikonの一桁ボディを買うのと、どっちが末期的症状なのだろう。

川面もピンクから紫に変わっていった。コウモリに翻弄されている間に、いよいよカモの姿も確認できなくなった。秋の日没は本当に容赦なくて、ちょっと油断するとすぐに暗くなってしまう。ここまで暗くなってしまうと、もう撮れるものはほとんどなくなってしまう。

この場所から名古屋駅のタワー群がこんなにはっきり見えることを今まで意識したことがなかった。距離を考えれば当然見えても不思議ではないけど、こんなによく見えたことがあったっけ。秋になってだいぶ空気が澄んできたようで、うちからも遠くまではっきりと見渡せるようになった。今日の最高気温は26度を超えていたけど、それでも季節は確実に進んでいる。

所変わって小幡緑地の緑ヶ池。先週の写真だ。
この池は、風のない日没時間にいくと、見事な鏡面写真が撮れる。テクニックでも発見でもなく、その時間この場所にいれば誰にでも撮れる。そういう写真はいい写真とは言わない。同じとき、同じ場にいてその人しか撮れない写真がいい写真だ。
上の写真でも、もう一つ何かプラスアルファの要素が加わればいい写真になった可能性はある。池か空に鳥がいるとか、池の前にカップルの背中があるとか、そういうものが。
ここで17mmの超広角を使ってみたかった。フィルム写真を撮っているときは、この場所のことを忘れていた。

同じ場所から84mm換算の中望遠域で撮るとこうなる。ずいぶん雰囲気が違ってくる。風景だから無条件に広角レンズが正解とは限らない。確信が持てなければ、ズームレンズでいくつかの画角を撮っておくと、あとから自分の写真を見て発見することもある。
左手に釣り人がいて、これはいい写真になったかもしれないと期待しながら撮ったのに、影で黒つぶれしてしまったのは残念だった。そちらに露出を合わせると、空の色が薄味になって味気なくなってしまう。それを避けるには、思い切って空を切り落として、水面と釣り人だけにするという手もあった。
水風景に限らず、水平線をどの位置に持ってくるかというのも難しい問題だ。7対3くらいが基本なのだろうけど、意識的にバランスを崩してみせるという表現もある。5対5は一般的に駄目と言われることが多いとはいえ、鏡面写真の場合はあえて半々にした方が安定感が生まれる。日の丸構図も絶対に不正解というわけじゃない。

川沿いの細い道に立っているこれがいつも気になる。反射板か何かだろうか。ちょっとメルセデスっぽい。
このアングルから通過する自転車を撮ろうとしたら、シャッタースピードが遅すぎて被写体ブレになって何がなんだか分からない写りになってしまった。暗さ限界を超えた。

穏やかな夕暮れ風景。暗い場所で何が起こっていても、表面的には平和な世界に見える。
夕焼けといっても、いろいろな色があり、イメージがあるものだ。これらの写真は夕焼けのほんの一部に過ぎない。同じ夕焼けは二度とないと言っても言い過ぎではないだろう。
記憶の中にある夕焼け空は、時間と共に美化されてますます美しさを増していく。あの夕焼けを超えたいとずっと思いながら夕焼け写真を撮っているけど、本当はもうどこかで超えているようにも思う。琵琶湖で見た夕焼けも、御座海岸で見た夕陽も、賢島で見た空も、自分の中で実物を超えてしまっているに違いない。
これからの季節は日没との競争になる。遠出をして一気にまとめ撮りをするしかない。リスが頬に餌をため込むみたいにたくさん写真の在庫を作らねば。と同時に、小ネタやつなぎネタが増えていきそうだ。